高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

誤訳の効用

浄土三部経のうち、無量寿経のなかで阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が決意表明をされるくだりがあります。

その部分を抜き出すと、「たとい、身は、もろもろの苦毒の中に止まるとも、わが行、精進して、忍んで終に悔いざらん」(浄土三部経~岩波文庫版)

これを現代日本語に訳すと、「たとえ、私の身体は地獄の中にあっても、努力して修行し、忍耐を重ねて最後まで後悔することはないであろう。」(浄土三部経~岩波文庫版)

しかしながら、サンスクリットからの日本語直訳では、「たとえわたくしがアヴィーチ(阿鼻地獄・無間地獄)に行き、(そこに)常にとどまることになろうとも、誓願の力をひるがえすことはないようにしよう。」(浄土三部経~岩波文庫版)

漢訳書き下しのテーマは、忍耐して最後まで後悔しない、となりますが、サンスクリットからの日本語直訳では、誓願の力をひるがえすことはない、と強調して、同じ日本語訳ですが、意味が違っています。

善意か悪意かわかりませんが、漢訳は、サンスクリット原文の誤訳ということになります。

しかしながら、無量寿経は宗教書なので、評価の基準を宗教的感銘のレベルにおかなければなりません。

サンスクリット原文を書いた人が漢訳を読むと驚くでしょうが、実は、法蔵菩薩のお言葉としては、誤訳である漢訳の方が高い宗教的価値を持つと言わざるを得ません。

サンスクリットからの直訳は、さらっと書いているので、ああそう、という気持ちになるだけですが、漢訳書き下しを読むと、ある種の悲壮感が残り、行動へのエネルギーが湧いてくるからです。

 

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