高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~幻の天守閣

福岡城に天守閣はあったのか?
1620年、豊前小倉藩主細川忠興公がご子息にあてた手紙には、福岡城の天守閣について、「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。御代には城も入り申さず候・・・」と書いています。
意味は、
「福岡城の天守閣や付属の家も取り壊した。当代の藩主は、城の中にも入らなかった・・・」
この手紙は、江戸時代早々に福岡城の天守閣が破却されたことを物語っています。
東西約25メートル、南北約22メートルの天守台も残っているので、天守閣があったのは間違いないようですが、肝心の絵図がないため、惜しいことに四層なのか五層なのか重要な造作(ぞうさく)がわかっていません。
ジオラマの天守閣は、五層になっていますが、これは製作者の想像です。

福岡城のジオラマ

 

 

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