高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~山門入口の戒壇石

禅寺山門の戒壇石には「不許葷酒入山門」といおう注意書きが刻まれている。
これは、葷酒山門に入るを許さず、と読むが、葷(くん 匂いの強い野菜)と酒を寺院に持ち込んではならないという意味である。
葷はネギ、ニンニク、ニラ、ラッキョウ、ハジカミの5種の野菜を言ったもので、これらは精力増強材として知られていたので、酒も含めて仏道修行のじゃまになる、ということであろうか。

戒壇石

易経の構成

1 易経の本文~経(けい)
上経(じょうけい 30卦)と下経(かけい 33卦) ←予言書

2 易経の注釈書~伝(でん) ←思想書
易経解釈のための十篇の書物である十翼(じゅうよく)
(彖伝上下、象伝上下、説卦伝、繋辞伝上下、文言伝、序卦伝、雑卦伝)

3 孔子の勉学ぶり
司馬遷によると、孔子は易経を好んだ、という。すなわち、
『孔子、晩にして易を好み、彖・繋・象・説卦・文言を序す。易を読むに韋編三たび絶つ。曰く、
「我に数年を仮し、是くの若くせば、我、易に於いては則ち彬彬たらん」と』

高野白山訳:
孔子は晩年になって易を好み、彖伝、象伝、説卦、繋辞伝、文言伝を整理した。
易を繰り返して読んだので、革の綴じひもが3回も切れた。
孔子がいうには、
「あと数年あってこのように研鑽できれば、私は、易の道理を極めるであろう」

中国の古典12「史記」Ⅳ(司馬遷著)
目次~孔子世家 270~271頁

 

ブラ高野~町子先生とサザエさん

町子先生とサザエさんが何やらひそひそ話をしている。
長谷川 町子(1920年1月~- 1992年5月)は、「サザエさん」や「いじわるばあさん」の原作者であるが、1946年、フクニチ新聞社の夕刊フクニチで「サザエさん」の連載を開始した。
自宅近くの百道海岸散歩中に磯野家の家族の名前を思いついた、という。本人はアルバイト感覚で引き受けたらしい。
磯野家の登場人物は、サザエさん以下、海に由来する、波平、フネ、マスオ、ワカメ、タラオ、カツオである。

町子先生とサザエさん(西南学院大学前)

九星気学の意義

1 意義
九星気学は西洋占星術と違って地上に想定した九つの星により方位の吉凶、運勢の変転
性格判断、人間同士の相性を判定する思想及び技術である。

2 九星の読み方は次の通りである。
一白水星~いっぱくすいせい
二黒土星~じこくどせい
三碧木星~さんぺきもくせい
四緑木星~しろくもくせい
五黄土星~ごおうどせい
六白金星~ろっぱくきんせい
七赤金星~しちせききんせい
八白土星~はっぱくどせい
九紫火星~きゅうしかせい

3 後天定位盤による九星の方位は次の通りである。
西北~六白金星
北 ~一白水星
東北 ~八白土星
東  ~四緑木星
中央~五黄土星
東南 ~三碧木星
南 ~九紫火星
西南 ~ニ黒土星
西 ~ 七赤金星

ブラ高野~福岡市庁舎

福岡市庁舎は、愛知万博の総合プロデューサーを務めた菊竹清訓(きくたけきよのり)が設計し、1988年に完成した。
地上15階、地下2階、高さ65ⅿ、延べ床面積5万㎡、行政棟と議会棟から成り、最上階には食堂があり天神を含め福岡市内が展望できる。
毎年夏になると、各フロアのテラスでアサガオを栽培する緑の「アサガオカーテン」を実施し、市民の憩いとなっている。
建設費はおよそ250億円。

福岡市庁舎

日本最初の干支(かんし)使用例

1 概要
西暦 570年の「庚寅」(こういん)や「正月六日」など銘文が象嵌(ぞうがん)された鉄製の大刀が元岡古墳群(福岡市西区)から出土している。
この大刀は年月日を特定する十干や十二支が入った、日本で最初の使用例である。

2 銘文(めいぶん)
大刀に刻まれた銘文は、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果練」と読める。
意味は、「大いなる庚寅の年、庚寅の月1月、庚寅の日6日、およそ12回鍛錬してこの刀をつくった」となる。(高野白山訳 異説あり)
銘文作者は、
「寅の年、寅の月、寅の日というめでたい時に12回も鍛錬して造った幸運の大刀である」という意味合いをこめているのである。
この大刀は、欽明天皇の時代、西暦570年1月27日に完成した。
※象嵌(ぞうがん)~鉄、真鍮に溝を刻み込み、金づちで金や銀を埋め込む保存、装飾手法。 象は「かたどる」、嵌は「はめる」と言う意味である。

ブラ高野~アクロス山

アクロス福岡(福岡市中央区天神)裏側のステップガーデンは、高さ60mの階段状の斜面に緑があふれ、まるで自然の山のように見えることから、アクロス山と呼ばれている。
公園の芝生からステップガーデンの最上階まで緑が連続して見えるよう、さまざまな200種の植物が植栽されている。
世界でも美しいスカイガーデンといわれ、まさに都心のオアシスである。
土・日曜、祝日に開園している屋上展望台からは、北は福岡タワーや博多ポートタワー越しに玄界灘を望み、南は中洲方面のにぎやかな光景と油山公園などの山並みを眺めることができる。

アクロス山

凶方位

⑴ 凶方位の意義
旅行、買い物、恋愛、仕事などおよそ人間の活動には必ず方位、方角があるが、良い結果をもたらす方位を吉方位、悪いことが起こる方位を凶方位という。
方位学は、その年によっても個人によっても次々と変化する方位の吉凶について、その法則性を研究対象として生活の一助とするものであるが、ケースによっては、八方塞がりになり、吉方取りや方違えをしなければどこへも行けない、という事態になる。
占い師として凶方位の意義や吉方取りの方法は知っておく必要があるが、方位の良し悪しは、気にする必要はないのである。
※方違え(かたたがえ)
~直接目的地へ行かず、別の方角から吉日を選んだり、出発の時間をずらしたりして移動すること。方違えの事例として土佐日記では、大阪から京都に帰るのにわざわざ時間をずらして、「それの年の十二月の二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す」
現代語訳は、
「ある年の十二月二十一日午後八時頃に出発した」

⑵ 凶方位の種類
暗剣殺(あんけんさつ)     五黄土星の反対方向   突発的で、急激な不運・不幸
五黄殺(ごおうさつ)      五黄土星の方向     だらだらと続く不運・不幸、
歳破(さいは)        十二支の反対方向    物事の破綻、失敗
本命殺(ほんめいさつ)     本命星の方向      自己責任による不運・不幸
本命的殺(ほんめいてきさつ) 本命星の反対方向    外部要因による不運・不幸
月破(げっぱ)        十二支の反対方向    物事の破綻、失敗
定位対冲(ていいたいちゅう)    定位置の反対方向  最終段階の破綻、失敗
※対冲は、反対側のこと
月命殺(げつめいさつ)     月命星の方向      自己責任による不運・不幸
月命的殺(げつめいてきさつ)     月命星の反対方向  外部要因による不運・不幸
日破(にっぱ)        十二支の反対方向    物事の破綻、失敗

ブラ高野~ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子

ジョアン・ミロ(1893年4月~1983年12月)は、スペインの画家でカタルーニャ地方の出身。
この作家の作風は、
「ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことから、シュルレアリストに分類されるのが通例だが、ミロの描く人物、鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、古典的・写実的描法を用いることが多い。」(ウィキペディアより抜粋)

福岡市は、福岡市美術館の収蔵品として、ジョアン・ミロの作品「ゴシック教会でオルガン音楽を聞いている踊り子」(1945年作)を約2億8千万円で購入した。

ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子

 

六変筮法(ろっぺんぜいほう) その2

⑴ 状況
崔杼が宲公(とうこう)の弔問に訪れた時、未亡人となったばかりの宲姜の美しさに驚き、家臣であり宲姜の弟であった東郭偃に仲を取り持つよう命じた。
しかし、東郭偃は難色を示した。
なぜなら崔杼と東郭偃・宲姜は斉の君主の血統をひく同族であったからである。
そこで宲姜を妻に迎えてよいか?というテーマで崔杼が易を立てると、「澤水困の澤風大過に之く」という結果が出た。

⑵ 解釈
澤水困六つの爻のうち、唯一「妻」について書いている三爻は、易経六十四卦三百八十四爻の中で最大凶である。
大夫(たいふ 貴族の位)の陳文子(ちんぶんし)は、澤水困の三爻について
「石に困しみ、蒺藜に拠る。その宮に入りて、その妻を見ず。凶なり、とあり石に苦しむとは、石に足をとられて川を渡るに渡れぬこと、蒺藜に拠るとはすがりついた菱の実のとげにも刺されること、そして、その宮に入りて、その妻を見ず。凶なり、とは帰る家もなくなる、ということです」といって婚姻を断念するようアドバイスしたのである。
しかし崔杼は強引に宲姜を妻に迎えた。
ちなみに、之卦(しか)の澤風大過で同じ三爻をみると、「家屋の棟木がたわむ、凶である」と崔杼家の崩壊を暗示して象徴的である。

⑶ 崔杼の弑逆(しいぎゃく)
崔杼が君主の荘公を殺したのは、荘公が夫人の宲姜と密通したからであるが、自宅に荘公光をおびき寄せ待ち伏せして殺したのである。
クーデターは成功し、崔杼は慶封と組んで政権を強奪した。
※弑逆(しいぎゃく)~臣下が主君を殺すこと

⑷ 結末
崔杼の前妻の子と宲姜の子を戦わせた慶封の謀略により、崔杼の一家は全滅した。
「その宮に入りて、その妻を見ず」と易経が予言したように、宲姜は自宅で首をつて死んだ。
それを見つけた崔杼も自殺したのである。

⑸ 史官の心意気~弑逆(しいぎゃく)の記録
崔杼が主君の荘公を殺した事件(BC548年)を太史(記録官)は、「崔杼その君を弑逆す」と書いたため殺害された。
その弟が太史の職を受け継ぎ、同じことを書いたのでやはり殺された。
次の弟も同じことを書いたが、三人目に至って崔杼は記録の抹殺を諦めこの弟は殺されなかった。
太史の二兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は今度は自分の番と思って「崔杼その君を弑逆す」と書いた竹簡を持って駆け付けたが、事実が記録されたと聞いて帰った。

 

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