高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

太陰暦の仕組み

月の形を見れば、日にちがわかって便利な太陰暦は、季節感との誤差が大きいのが特徴で、これをどう工夫して日常に利用してきたか、その仕組みご説明しましょう。

1 キーワード
太陰暦を理解するキーワードは、月の満ち欠けが一巡する29.5日と朔(さく)、望(ぼう)、晦(つごもり)という闇夜や月夜を意味する名称です。

太陰暦では、月の見えない日を毎月の1日に設定します。これを朔といい、夏みかんの名称でもある八朔といえば、実は8月1日のことを指します。

見えない状態から満月になるまで15日かかるので、満月の状態を望といい、その日を毎月の15日と設定します。

29日か30日になると、月は再び見えなくなります。

この状態を晦~「みそか」あるいは「つごもり」~といい、今でも12月31日をおおみそか、というのは太陰暦の名残りです。

太陽ではなく、月を基準につくったカレンダーを使い続けると、夏も冬も全く分からなくなります。

そこで、なんとか太陽の動きに合わせて、カレンダーを補正する必要がでてきますが、その方法は三つあります。

2 閏月の追加
太陰暦の1箇月は、約29.5日なので、12箇月で354日になりますが、太陽の動きに合わせた365日に年間で11日間足りなくなります。

この不足分を調節する必要がでてきます。

太陽と月の周期が一致する19年間でみると、太陰暦では、月換算で約7箇月足りなくなるので、カレンダーに19年間で7箇月を追加しますが、これを閏月と言います。

伊勢度会郡の富田大貳が作成した天保3年(西暦1832年)壬辰暦では、11月を2回つくっているので、1年間は、384日になりました。

3 二十四節気の導入
さらに、太陽の軌道である黄道を観測して、その位置を記録しておけば、暑くなったり、寒くなったりする時期が事前にわかります。

円を描く黄道を24等分して、それぞれに立春や立秋また春分や秋分という名称をつけて、カレンダーに記載しておくと、太陰暦でも季節の実感がわかるので、ずっと使い勝手がよくなります。

この季節区分を二十四節気といいます。

4 雑節による補完
それでも日本列島では、5月5日頃が立夏、8月7日頃が立秋になり、季節感のズレを生じます。

黄河流域で生まれた二十四節気を補完する意味で、日本列島の風土、生活習慣を表す入梅や嵐の到来を告げる二百十日、季節を分ける節分などの名称をカレンダーに追加記載すると格段に使いやすくなります。

これらの名称は日本独自の暦日で、雑節といいます。

以上のように、太陰暦を補正して、太陽の動きに合わせて使いやすくした暦を太陰太陽暦とも呼びます。

ブラ高野シリーズ~織田信孝の呪い

織田信孝は、織田信長の三男で、信長、信忠亡き後、後継者争いに敗れ、豊臣秀吉と対立していました。

最終的には、降伏しましたが、豊臣秀吉は、容赦せず主筋にあたるその実母(織田信長の側室)、側室、娘を処刑しました。

1583年、織田信孝ご本人も愛知県知多郡美浜町野間の安養院で自害させられました。

辞世の歌を呪いの言葉でつくっています。

「昔より主討つ身の野間なればむくいを待てや羽柴筑前」

意味は、
「昔、源義朝公が家来から討たれた内海の浦、野間の地で、私も自害するが、その家来がどうなったか、羽柴筑前守よ、報いを待て」

前半の「昔より主討つ身の野間なれば」という部分は、1160年正月3日、平治の戦いに敗れ関東に落ちていく途中の源義朝公が、内海の浦、野間の地で家来筋により浴室で惨殺された事件を指しています。

下手人の長田父子は、後日源頼朝により磔にされ弓矢で射殺されています。

語呂合わせは、討つ身→内海(うつみ)となります。

ご自害の場所は、安養院本堂裏の部屋ですが、理由は不明ながら、非公開だそうです。

豊臣秀吉亡き後、豊臣家滅亡の様相は、まさに呪われた、と思えるほど悲惨です。

終焉の場所~安養院
安養院
安養院案内看板
安養院看板

呑象 高島嘉右衛門の天才性

高島呑象先生(1832年~1914年)の天才ぶりをご紹介しましょう。

1 安政2年(1855年)の大地震、大火災を予知
大量のナマズが獲れる上、妙な釜鳴りがするため、胸騒ぎがして、易を立てたところ、易経30番目の「離為火」が出ました。

「離為火」は、火が二つ重なった様子を示すことから、呑象先生は、大火災の発生を予測し、佐賀鍋島藩から借り入れた1千両を元に、江戸中の材木屋に手付けを打ち、買い占めた1万両分の材木を、大火災の発生とともに4倍の値段で売り払い、莫大な利益を上げることができました。

呑象先生、弱冠22歳の時です。

2 日清戦争後の3国干渉を予言
日清戦争の開戦前にかかわらず、ロシア、イギリス、アメリカによる3国干渉を新聞に発表しました。

この時は、「水天需」の上爻が出ています。

上爻は、「穴に入る。招かざるの客三人来るあり。これを敬すればついには吉なり。」というものです。

実際の三国干渉は、ロシア、ドイツ、フランスでしたが、開戦前に新聞で公表するなど並みの占い師ではとてもできません。

3 釜石鉱山の存在を予知
岩手県仙人峠の茶屋で休息していた時に、山鳥の鳴き声を数えて釜石鉱山の存在を予知し、後年の明治政府による本格的な発掘のきっかけとなりました。

山鳥の鳴き声は、最初に1声、次に7声、さらに6声でした。

これを卦爻に置きかえると、山天大畜の上爻となります。

山天大畜は、山と天の大いなる蓄積、という意味があります。

卦辞の内容は、「正しければよい。外に出て活動すれば吉。大きな川を渡ってよい。」

また、上爻は、「天に命じられた大切な役目を引き受ける。通る。」

これにより、呑象先生は、山中にある大量の鉄鉱石を予測することができました。

他にも佐賀の乱で、江藤新平の行く末を予知したり、日本海海戦の結果を予言したり、エピソードにはこと欠きません。

呑象先生は、東京都港区の泉岳寺でやすらかにお眠りになっていらっしゃいます。

ブラ高野シリーズ~傾城阿波の鳴門

人間が演じるよりも真実味を感じさせる人形浄瑠璃は、人形遣いと浄瑠璃語りでつくり上げる人形劇の一種です。

傾城阿波の鳴門 順礼歌の段は、主家のお家騒動に巻き込まれ、三歳の娘を捨てた夫婦と捨てられた娘の物語です。

登場人物は、母のお弓、父の十郎兵衛、巡礼となって父母を探す娘のおつるです。

お弓が大坂玉造の隠れ家に潜んでいると、巡礼の声が聞こえてきます。
※                  ※
巡礼の娘おつる~「順礼に御報謝」

お弓が巡礼の娘に尋ねます。

お弓~「可愛らしい娘の子、定めて連れ衆は親御達、国はいづく」

巡礼の娘おつる~「アイ、国は阿波の徳島でござります」

さらに、お弓は巡礼の娘の身の上を聞き出します。

お弓~「ムム、シテその親達の名は何というぞいの」

巡礼の娘おつる~「アイ、父様の名は十郎兵衛、母様はお弓と申します」
※                  ※
お弓は、我が娘とわかりながら追手がかかる身、涙をのんでいったんは追い返したものの、後悔し、あとを追いかけます。

入れ違いに夫の十郎兵衛が、これまた我が娘とは知らないまま、追剥にあったおつるを救い出しますが、悪心を起こした十郎兵衛は、おつるから金を取り上げようとして、もみ合ううちに殺してしまいました。

むなしく帰ってきて、おつるの死骸を見たお弓は、激しく自分を責めます。

お弓~「その時留めて置いたらば、かういふ事もあろまいに・・・殺さしやつたのもわしが業、コレ堪忍してたも、堪忍してたもや。」
※                  ※
短い時間のうちに、残酷な運命と人間の浅ましさを描き切って、見事というほかありません。

どんどろ大師前のめぐり会い(歌舞伎)
傾城阿波の鳴門

どんどろ大師(善福寺)
どんどろ大師2

丑寅の艮(うしとらのごん)

北東の方位を丑寅といい、鬼門を強調する場合は、丑寅の艮と呼びます。

家相学では、原則として適度の張り(一辺の1/3以内)は、吉でプラスの力とみますが、丑寅の艮だけは何としても張りを造ってはいけない場所(方位)です。

張りを造るとどうなるか。

欲望が深く強くなるため、家族、親族間での相続争いが、世代を超えて、地域を超えて、果てしなく続くことになります。

丑寅の難しさは、土の作用である、変化と反変化(固定、停滞)が同時に起こり、いったん張りを造ると、人間の手には負えない場所(方位)となります。

また、丑寅の艮にある三畳間では、昔から心中や自死が避けられない、といわれています。

いずれにせよ、家の中心から見て北東の方位にある部分は、増改築も含めて扱わないほうが無難でしょう。

ブラ高野シリーズ~天神地下街

福岡市中央区にある天神地下街は、長さ600m、延床面積28,000㎡、東京ドームの60%の広さです。

一日の歩行者数は、約400,000人といわれていますが、人通りは、多すぎず、少なすぎず、ゆっくりと余裕をもって街歩きを楽しめます。

全体に薄暗く照明を落としていることで、店舗の明るさが引き立つため、買い物がしやすく、また歩いて飽きることがなく、地上のビル街とは別世界の趣があります。

お金を存分にかけて造った地下街を歩くたび、商人の街である博多の財力に思い至ります。

市街地にある空港との関連で、高度制限があるため、地上には高層ビルが見当たらない分だけ、街が地下へと発展したのでしょうか。

天神地下街
天神地下街1

天神地下街インフォメーション
天神地下街

二代目の辛さ

今から約1800年前、諸葛亮孔明は、現在の中国河南省南陽で無位無官、晴耕雨読の日々を送っていました。

この人は、学者肌の野心家ですが、文人サロンを根城に街中に自分の評判を撒き散らして、劉備の誘いを待つところは、なんだか弘法大師のケレン味を思わせます。

ただ、いやらしさが感じられないのは、人格の高潔さ、志の高さによるものです。

漢王朝の復興を目指して、パートナーとして劉備を選んだだけで、私欲がないことは、中国大陸では、奇跡的に珍しい存在と言っていいほどです。

出師の表では、二代目の劉禅に対して、
「則ち、漢室の隆んなること、日を測りて待つ可きなり。」と書いています。

意味は、
「そうすれば、漢室の隆盛は、日を数えて待つばかりとなるでしょう。」

出師の表は、何やらこむづかしい漢字が並んでいますが、内容は単純で、二代目である劉禅への説教と北伐への決意表明です。

出師の表の最後に、
「臣、恩を受けて感激に勝えず、今、遠く離るるに当たり、表に臨んで涕泣す。云う所を知らず」とあります。

意味は、
「私は、恩を受けて感激に耐えることができず、今、遠く離れようとするにあたり、この上奏文を前にして、激しく涙を流しています。語るべき言葉がありません。」

世界史に残るような名文を書く人物を臣下とした、平凡、というより暗愚に近い二代目君主の辛さに対して、同情するほかありません。

ブラ高野シリーズ~一葉記念館

東京都台東区竜泉にある一葉記念館は、東京メトロ日比谷線三の輪駅から歩いて8分、地上3階、地下1階、外観は、竹林のイメージを感じさせる洒落た造りです。

小説「たけくらべ」は、東京の下町を舞台に、美登利という少女の心情に肉薄しつつ、最後の部分は謎のまま終わる、というミステリアスな結末になっています。

一つのセンテンスが異常に長いのも特徴で、これは、森鷗外の影響でしょうか。

待たせるだけ待たせて、読ませるだけ読ませて、あとはご自由に想像して下さい、という作家の意図が見えてきて、天才的な小説技法というべきでしょう。

樋口一葉先生は、明治29年、肺結核のため24歳の若さで逝去されました。

一葉記念館
一葉記念館

一葉女史記念碑(菊池寛撰)
一葉記念碑(菊池寛撰)

一葉女史たけくらべ記念碑
一葉女史たけくらべ記念碑

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