高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

般若心経~空の意味

「観自在という行者が智恵の完成行を修めた時、人間存在は空であると体得し、一切の苦悩から解放された」という有名な書き出しで始まる般若心経を理解するのは、並大抵ではありません。

わかりにくい理由は、「無」という単語の多用に原因があり、空の概念を無理やり無を使って説明するので、読み手は空と無を混同して最後には意味がわからなくなります。

空とは、無いということではなく、絶え間なく変化するため、本質も実体もわからないあやふやな、しかし確かに存在する現象なのだ、と説けばわかりやすくなるのですが、眼や耳、鼻、舌、身体、意思も無い、とか物質や声、香り、味、触感、存在自体も無い、とか読めば読むほど、わかったような、わからないような気持ちになります。
さらに、生ぜず滅せず、とか増えず減らずと書いているので、ますますわからなくなります。

無という単語を全部で21回繰り返していますが、これは、サンスクリットや古代中国語に現代日本語の現象にあたる用語がなかったためだ、とみています。

「観自在という行者が智恵の完成行を修めた時、人間存在は現象であると体得し、一切の苦悩から解放された」というふうに現象という単語を使うことができれば、あれこれ小難しく説明する必要はなかったに違いありません。

人間も自然も宇宙も、現象という点では何らかわることはないのだ、と書けば大乗仏教が発見した真理をスムーズに伝えることができ、読者も理解しやすくなると思うものの、強い呪文性を帯びている般若心経について、今さら小賢しく解説するのも無意味かもしれません。

 

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