高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

薩摩のすてがまり

西暦1600年、関ヶ原の戦い終盤、島津勢は、すてがまりという戦法で退却戦に突入します。
すてがまりは、数人のしんがりが退路にあぐらをかいて座ったまま、火縄銃で敵を狙い撃ちしながら一時的に追撃を止めます。
これを何組も繰り返し、本隊を逃がしたあと、置き去りになったしんがりは、皆殺しになるという過酷な退却法です。
西軍の敗北濃厚、敵中に孤立した島津義弘は、当時66歳の高齢、足弱のため背後の急峻な伊吹山系を登ることができず、なこよか、ひっとべ(泣くより、ひっ跳べ)という諺のとおり、前面の東軍に向かって敵中突破を決意します。
火縄銃の一斉射撃のあと、わずか300人程度に減った島津勢が突撃してきたため、驚いたのは、東軍将兵です。
勝利が確定した10万人近い東軍の後詰は、事態が把握できず、この瞬間関ヶ原全体に空白の時間が流れたはずです。
眼の前を遁走する島津勢を一呼吸おいて見送る徳川軍が追撃戦を開始したのは、島津勢が伊勢街道を南下し始め、気が緩んだ頃でしょうか。
しかしながら、すてがまりの効果絶大、手勢の80人とともに島津義弘は生き残り無事薩摩に帰還できたものの、当初関ヶ原に参集したのは1,000人以上、生還率が8%に満たないという壮絶な敗戦でした。
島津家中の子孫共は、日本列島最大の内戦である明治維新を戦い抜き、関ヶ原の戦いから268年後リベンジを完了しました。

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