高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

観相の偉人 水野南北の軌跡(きせき)

1 観相との出会い
観相の偉人である水野南北(1760年~1834年)は、幼い頃両親を失って孤児となり、親戚に引き取られるが、10歳の頃から酒を飲み始め、喧嘩ばかりしていたという。
18歳で酒代欲しさに悪事をはたらき牢屋に入った時に、入牢者の人相について興味深い事実に気づいた。
罪人として牢の中にいる人の相と、普通に生活している人の相の間に、明らかな違があることに気づくのである。
これがきっかけとなり、水野南北は観相に関心を持つようになった。

2 剣難の相
牢屋を出た後、水野南北は、当時大阪で名高かった人相見を訪れ、自分の相を見てもらった。
すると、「剣難の相であと1年の命」と宣告されてしまった。
助かる方法はあるかと尋ねたところ、唯一の方法は出家であると言われた。
水野南北は、稀に見る悪相・凶相の持ち主だったのである。

3 年間の食事
そこで禅寺を訪れて入門を依頼するが、住職はその悪人面を見て断ろうと思い、「向こう1年間、麦と大豆だけの食事を続けることができたなら入門を許そう」と答えた。
助かりたい一心の水野南北は、この条件を忠実に実行に移す。
冲仲士をしながら、1年間、麦と大豆だけの食事をするのである。

4 観相家への道
麦と大豆の食事を1年間続けた南北は、禅寺の住職のところへ行く途中に再び例の人相見を訪ねてみた。
すると人相見は,「あれほどの剣難の相が消えている。貴方は人の命を救うような、何か大きな功徳を積んだに違いない」と言った。
麦と大豆の食事を1年間貫き通したことを話したところ、それが陰徳を積んだことになって、凶相を変えてしまった、というのである。
これで禅寺に行く必要のなくなった水野南北は、自分も観相家の道を志そうと決めた。
水野南北21歳の時である。

5 勉強の方法
水野南北は、言い伝えや書物で勉強するだけでなく、散髪屋の修業をしながら3年間人相を研究し、続いて全身の相をみるため風呂屋の三助を3年間、火葬場のおんぼうとなってさらに3年間、死体の骨格や体格などを詳しく調べ研鑽(けんさん)を重ねた。

6 慎食
運勢の強弱は食にあり、とひらめいた水野南北は、「我れ衆人のために食を節す」と決意し、生涯にわたって慎食、すなわち少量の食物を大切にしながら食べた。主食は麦、副食は一汁一菜であった。
米は一切口にせず、餅さえ食べず、好きな酒も、1日1合以上は飲まなかったという。

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