高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

中国大陸黄土地帯の様相 その3~地形

細く長い日本列島では、東西南北に比較的に人間が動きやすいが、黄土による断崖や段丘、また大河、大山脈にさえぎられた中国大陸では、過酷な自然により移動自体が困難であった。黄河流域に広がる黄土に覆われた大地の有様を司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」から紹介しよう。

項羽と劉邦:
「現在の行政区でいえば山西省になる。ほぼ全体が黄土高原をなし、いくつかの山脈が南北に並行し、山も谷も黄土層をもってあつくおおわれており、樹木もすくない。そのなかを北から南へ高原を切り裂くように汾河(ふんが)が流れている。汾河の両側は黒っぽい断崖、灰色の段丘が多く、ときに水流が大きく地をひろげてひとびとに耕地をつくらせており、韓信とその軍が通って行った道路というのは、その汾河河谷(かこく)ぞいに延びている。
地名でいえば、曲沃(きょくよく)、平陽(へいよう)(現在、臨汾、介休をへて楡次(ゆじ、太原市の南方)を通り、この楡次のあたりから道がはじめて東する。黄土高原は次第に降りになり、やがて河北平野がひらけ、現在の地名でいえば、石家荘市あたりに出る。ただ、河北平野へ出る行路は最後の難所というべきところで、道のゆくてには、南からつづいている太行(たいこう)山脈の北端がさえぎっている。そのあたりの地形はじつに奇怪であった。天が包丁をもって山地を縦横にきざんだように細長い谷ができている。それが自然の切通しや道路になっているのだが、そのほとんどは人馬が二列になって通ることができず、一列でもって長蛇の列をつくらなければならない。このあたりでそういう自然道のことを陘(けい)と呼んでいる。

そのなかでも、井陘(せいけい)という自然道が有名で、韓信軍が河北平野に出るにはこの井陘の道を通らなければならない。平野に出る手前に、古来、関門があった。土門関といい、井陘口(せいけいこう)とも呼ばれた。『井陘口さえ扼(やく)すればどういう大敵でもふせげうる〛と、古い時代からいわれていた」

出典:司馬遼太郎全集45「項羽と劉邦」
目次~背水の陣 454頁~455頁抜粋

TOPページ

ページの先頭へ