高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

敗者の痛み

時はBC202年漢楚興亡の末期、垓下の戦いで四面楚歌、滅亡を覚悟した項羽(BC232年~202年)の心境は、次の通り後世に伝えられている。
項羽が最後の宴で詩を詠んでいる場面を史記から引用しよう。

史記:
「項王、即ち夜起(た)ちて、帳中に飲す。美人あり。名は虞(ぐ)、常に幸せられて従う。駿馬あり、名は騅(すい)、常にこれに騎す。是(ここ)において、項王、乃ち悲歌杭慨(ひかこうがい)し、みずから詩を為(つく)りて曰(いわ)く、
力は山を抜き 気は世を蓋ふ
時に利あらずして 騅(すい)逝かず
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。」

現代語訳:
「項王は、夜中であるが於き出して。帳(とばり)の中でささやかに最後の宴を張った。美人がいた。名を虞(ぐ)といい、項王はいたく寵愛して、いつも離さず連れていた。また、世に優れた名馬がいた。名を騅(すい)といい、項王の常に乗る馬であった。項王の胸の中を名状し難い激情が駆け抜けた。項王は心の高まりのままに、みずから詩を作り、むせぶような抑掦(よくよう)をつけて歌った。

力は山を抜き 気は世を蓋ふ (ちからはやまをぬき、きはよをおおう)
時に利あらずして 騅(すい)逝かず (ときにりあらずして すいゆかず)
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん (すいゆかざるをいかんせん)
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん (ぐやぐやなんじをいかんせん)
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。

幾回か繰り返してうたい、虞美人もこれに唱和した。
一座の者もみな泣き、顔をあげられるものは誰もいなかった。」

時に利あらずして、と詠っているように項羽は、敗北の原因は自分ではなく時勢にある、と思っていたのである。
これに史記の著者である司馬遷(BC145年~BC87年)は次のように激しく非難している。

史記:
太史公曰く、みずから攻伐に矜(ほこり)り、其の私智を奮いて、古(いにしえ)を師とせず、覇王の業と謂(おも)い、力征を以って、天下を経営せんと欲せしも、五年にして卒(つい)に其の国を滅ぼし、身は東城に死せり。尚お覚寤(かくご)せずして、みずから責めざしは、過てり。乃ち「天、我を滅ぼす。兵を用うるの罪にあらざるなり」を引く。
豈(あ)に謬(あやま)らずや。
※太史公は司馬遷自身のこと

現代語訳:
ある記録官は言う、自分の功を誇り、自分の知恵ばかりに頼って、過去の教訓によろうとはしなかった。己(おのれ)のなすところこそ覇王の事業と信じ込み、ただ武力によって天下を運営してゆこうとし、五年にしてついにその国を失ったのである。東城で首かき切って死んだときでさえ、なおそのことに気が付かず、みずからを責める気持ちがなかったが、それは間違っている。しかも「天がわたしを滅ぼすのだ。戦術のまずさのためではない。」と言い張るの及んでは、誤謬(ごびゅう)も甚(はなはだ)しいというべきではないか。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~項羽本紀 264~265頁抜粋

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