福岡市地下鉄1号線西新駅近く、修猷館高校の外壁西端にある「史跡 元寇防塁 入口」という石碑を北へ曲がって行くと、2分程度で道路左手に芝生の空き地が見えてきます。
元寇防塁(福岡早良区西新)の史跡です。
築造当時の高さは、2.5mから3mあったそうです。
博多湾沿岸の今津から香椎まで約20㎞にわたって波打ち際に築かれた防塁は、今でも福岡早良区西新、百道、西区生の松原に残っています。
内部は、粘土や砂を利用して突き固め、外側を岩で覆ったもので、急造したことがわかります。
福岡市教育委員会によると、福岡早良区百道の防塁は、岩石の風化により、史跡崩壊の恐れがあるため、あえて発掘していないそうです。
西暦1281年(弘安4年)、元・高麗連合軍(東路軍)は、軍兵約4万人、軍船約900隻で再度襲撃してきました。
九州の名門少弐氏をはじめとして、主に肥前・肥後、豊前・豊後、筑後、薩摩、伊予の地頭・御家人・海賊衆が戦いに参加しましたが、戦法や武器の違いがありつつ、善戦したなかで防塁の防御力が立派に働きました。
元・高麗連合軍はやむを得ず志賀島に上陸したものの、志賀島は今でもそうですが、樹林に覆われた小高い山で、地勢を利用した日本側の襲撃には敵うはずもなく軍船に逃げ込むという戦いをしていました。
日本側のしつこいアタックと威力を発揮した防塁の存在により、嫌気がさした元・高麗連合軍(東路軍)は、博多湾からの上陸を断念し、長崎の鷹島沖に援軍とともに集結していたところを大暴風雨に遭遇し、溺死者、軍船の沈没多数、戦闘能力を喪失しはるか海上へ撤退していきました。