NPO法人九州易学開運学院

徒然の記

古代中国人相鑑定のエピソード

1 概要
時は紀元前3世紀、のちに漢帝国を建国した高祖劉邦(BC256~BC195)が結婚して子供をもった頃である。ところは中国大陸黄土地帯である。
このエピソードは古代中国ではすでに人相鑑定が存在したことを表している。
史記(BC90年前後に完成)から引用して紹介しよう。
ちなみに著者である司馬遷は、劉邦が逝去して50年後に生まれた歴史家である。

2 史記
「高祖、亭長たりし時、常(かつ)て告帰して田に之く。
呂后、両子と与(とも)に田中に居(お)りて耨(くさぎ)る。一老父あり、過(よぎ)りて飲(のみもの)を請う。呂后、因(よ)りてこれにくらわしむ。老父、呂后を相して曰く、『夫人は天下の貴人なり』と。両子を相せしむ。孝恵を見て曰(いわ)く。
『夫人の貴き所以(ゆえん)は、及(すなわち)此(こ)の男あればなり』と。
魯元を相するに、亦(また)皆貴しという。老父已(すで)に去る。高祖、適(たま)たま旁舎(ぼうしゃ)より来る。
呂后、具(つぶさ)に言う、『客の過(よぎ)るありて我ら子母を相し、皆大いに貴しといえり』と。
高祖、問う。曰(いわ)く、『未だ遠からず』と。
乃(すなわ)ち追い及びて老父に問う。老父曰(いわ)く、『郷者の夫人・嬰児は、皆君に似たり。君の相の貴きことは、言うべからず』と。高祖乃(すなわ)ち謝して曰(いわ)く、『誠に父の言のごとくならば、敢(あ)えて徳を忘れず』と。
高祖の貴きに及びて、遂に老父の処を知らず」

出典:中国の古典12
史記 高祖本紀
(司馬遷 著)

3 高野白山訳
高祖が亭長であったころのこと、ある時、休暇をとって帰郷し、畑に出かけた。呂后が二人の子供と畑で草取りをしていると、一人の老人が通りかかって、飲み物が欲しいと言う。呂后はついでに飯まで食べさせてやった。老人は呂后の人相をみて、「奥さんは、将来、天下の貴人におなりです」と言った。二人の子を見てもらうと、孝恵帝を見て、「奥さんが高貴になるのは、この方のためです」と言った。
魯元公主もやはり高貴な相ということであった。
老人が立ち去ってほどなく、高祖が近くの家から出てきた。呂后は事の次第を詳細に話した。「通りがかりの老人がわたしたち母子の人相を見て、みな大変高貴な相があるって言っていましたよ」
高祖が尋ねた。
「そのじいさんはどこへ行ったのか」
「まだその辺におりましょう」
そこで高祖は急いで追いかけた。追いついて老人に尋ねた。すると老人は言った。
「さき程の奥さんもお子たちも、あなたの相にそっくりだ。あなたの相の高貴さはとても言葉では言い表せない」
高祖は礼を述べて言った。
「本当に御老のお言葉通りになったならば、御恩は決して忘れません」
だが劉邦が漢の始祖になったとき、老人はどこへ行ったのか、ついにわからなかった。
※呂后~高祖夫人 ※孝恵帝~高祖の長男 ※魯元公主~高祖の長女

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