織田信孝は、織田信長の三男で、信長、信忠亡き後、後継者争いに敗れ、豊臣秀吉と対立していました。
最終的には、降伏しましたが、豊臣秀吉は、容赦せず主筋にあたるその実母(織田信長の側室)、側室、娘を処刑しました。
1583年、織田信孝ご本人も愛知県知多郡美浜町野間の安養院で自害させられました。
辞世の歌を呪いの言葉でつくっています。
「昔より主討つ身の野間なればむくいを待てや羽柴筑前」
意味は、
「昔、源義朝公が家来から討たれた内海の浦、野間の地で、私も自害するが、その家来がどうなったか、羽柴筑前守よ、報いを待て」
前半の「昔より主討つ身の野間なれば」という部分は、1160年正月3日、平治の戦いに敗れ関東に落ちていく途中の源義朝公が、内海の浦、野間の地で家来筋により浴室で惨殺された事件を指しています。
下手人の長田父子は、後日源頼朝により磔にされ弓矢で射殺されています。
語呂合わせは、討つ身→内海(うつみ)となります。
ご自害の場所は、安養院本堂裏の部屋ですが、理由は不明ながら、非公開だそうです。
豊臣秀吉亡き後、豊臣家滅亡の様相は、まさに呪われた、と思えるほど悲惨です。