高野白山の九州易占塾

徒然の記

真実と虚構

司馬遼太郎先生によると、真実というのは、虚構なしには表現できないそうです。

といっても、意味不明ですが、私なりに解釈すると、壮大な虚構を書き連らねれば、真実に肉迫することができるということになるのでしょうか。

ユダヤ教の聖典である旧約聖書の創世記第二章(日本聖書協会発行)に次の記述があります。

「主なる神が地と天を造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし、地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。主なる神は、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」

大虚構を堂々と書くと不思議に真実味をおびてくるという事例で、この部分がもし本当なら、イエスの復活など当たり前、理解可能となります。

法華経観世音菩薩普門品には次のような詩句があります。

「たとえ、悪意を持った者から巨大な火の穴に突き落とされても、かの観音の力を念ずれば、火の穴は池となるであろう。
あるいは、広大な海を漂流して竜や魚や怪物に襲われても、かの観音の力を念ずれば、波浪の下に沈むことはない。
あるいは、須弥山の峯から突き落とされても、かの観音の力を念ずれば、太陽のように虚空に止まることができるのだ。」

虚構もここまでくれば見事というほかないわけで、読んでいくうちに、何となく納得して、これはほんとうのことか、とつい思ってしまうのはなぜでしょうか。

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