西暦1160年、平治の乱に敗れた源義朝公は、小舟に隠れながら伊勢湾を渡り、対岸知多半島の野間(愛知県美浜町)に逃れました。
家人筋の長田忠致を頼ったものの、入浴中に襲撃され、襲撃者に立ち向かおうにも刀もなく、惨殺されました。
後日、長田忠致、景致父子は、源頼朝にとらえられた挙句、磔にされ、射殺されたといいます。
辞世の句は、でき過ぎなので後世の作と思われますが、ご紹介しましょう。
「ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまわり」
意味は、
「源義朝を討ちとって自分は壱岐守に任官することができ、もっと命ながらえたいと思うものの、頼朝から美濃と尾張を下されると欺かれ、今ほんとうに、身の終わり、を賜ってしまった」
語呂合わせは、以下のようになっています。
壱岐→生き
美濃尾張→身の終わり