高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~菩提樹

日本各地の寺院で見かけることが多い菩提樹は、高さ20m、直径50cm以上にもなる美しい落葉高木で、中国原産、中国南部と朝鮮半島に分布しているが、もとは臨済宗の開祖である栄西(ようさい)が中国の天台山から12世紀に持ち帰ったと伝えられている。
同じ菩提樹でも釈迦が悟りを開いたといわれる菩提樹は、インド原産種であり、中国原産種とは似て非なるものである。
ただ葉の形が似ていること、また寒さに強いことから、中国原産種が日本に広がったという。

E寺院の菩提樹(福岡市東区)

 

易経の三大思想 その3 平和

1 平和志向の思想
⑴ 概要
戦乱の中国大陸で生まれた易経は、戦禍を嫌った平和志向が強い教えである。
その根拠は以下の条文である。

ア 澤天夬
戎(じゅう)に即(つ)くに利ろしからず。
・解釈~武力をもちいるのはよろしくない。

イ 地天泰の上爻
師(いくさ)を用うるなかれ
・解釈~いたずらに軍を動かして力で抑えようとしてはいけない。

ウ 離為火の上爻
王もって出征す。嘉(よ)きことありて首(かしら)を折(くじ)く。獲(う)るものその醜(たぐい)に匪(あら)ざれば、咎なし
・解釈~王が兵を率いて出征する。戦いに勝利し、相手の大将を誅殺する。しかし、捕虜を殺さず寛大に処置すれば、咎めはない。

エ 地雷復の上爻
もって師(し)を行(や)れば、終(つい)に大敗あり、その国君に及ぶ。凶なり。十年に至るまで征するあたわず。
・解釈~軍を出せば、大敗を喫し、災いは君主自身にまで及ぶ。十年を経ても雪辱はかなうまい。

オ 地水師の三爻
師あるいは尸を興す。凶なり。
・解釈~出陣すれば、大敗して死屍を車に積んで帰還する破目に陥るかもしれない。凶

カ 地水師の四爻
師(し)左(しりぞ)き次(やど)る。
・解釈~進み難きを知って退く。この兵法の常道を守れば咎めを免れる。

キ 地山謙の上爻
もって師(いくさ)を行(や)り邑国(ゆうこく)を征するに利ろし。
・解釈~兵を動かしとしても、ただ自分の領地内を平定するにとどめるがよい。

ブラ高野~親不孝通り

親不孝通りという名称は、通りの北に水城学園、九州英数学舘という予備校があり、大学浪人のたまり場としてつけられた通称で、天神万町通りという正式名称よりも親しまれてきた。
1990年代初頭のバブル崩壊までは全国から若者たちが集まる繁華街として賑わったが、その後は人通りが少なくなるとともに治安も悪化し、2000年に「親富孝通り」と改称された。
しかし、街の治安は回復したものの賑わいは取り戻せないことから、地元商店街から愛着のある「親不孝通り」への名称復活運動がおこり、2017年に元来の「親不孝通り」という通称に戻された。
かつての夢を売るにぎやかさはないが、今では飲食店や喫茶店、コンビニが少しづつ増えている。

親不孝通り

易経の三大思想 その2 安定

1 安定の思想
⑴ 概要
安定の思想については、天地否と地天泰という二つの大成卦で説明可能である。
天が上にあり、地が下になるというノーマルな形の天地の卦が否定を意味し、逆に地が上にあり天が下になる、という地天の卦が安泰を意味するのはなぜか?
天地否は柔である地の上に、剛である天が乗り、地は今にも押しつぶされそうで不安定感を表し、地天泰は、剛である天の上に、柔である地が乗っているためバランスがとれ平穏である、とみるのである。これは易経独特のバランス感覚である。

⑵ 地天泰
泰は、小往き大来(きた)る。吉にして亨(とお)る。
・解釈~地天泰は、つまらない小人が去っていき、賢者が近寄ってくる。吉にして通る.

地天の卦は、上に断線の軽い柔が乗り、下では直線で重い剛が支えるので、バランスがとれているとみるのである。
あるいは地は下へ下り、天は上へ上るので天地陰陽が融合し安定するともいう。
三国志という戦記に描かれているばかりではなく、中国共産党一党支配の現代でも、文化大革命という美称のもとで、1,000万人単位の大虐殺があったように、絶え間ない戦乱の大陸である中国で生まれた易経の理想は、安定した平和な社会の実現である。
※泰は、おおきい、やすらか、という意味で、安泰、泰然、

⑶ 天地否
否は、之(こ)れ人に匪(あら)ず。君子の貞に利ろしからず。大往き小来る。
・解釈~まともに人のとるべき道が行われない。君子であっても正しいことが通用しない。見識ある立派な人は去っていき、つまらない小人(しょうじん)がやってくるからだ
否の熟語は否定、否認、拒否がある。
算木の形をみると、上に直線で重い剛があり、下が断線で軽い柔となっている。剛が柔を押しつぶすという将来の危機を告げているのである。
あるいは乾(天)は上へ上り、坤(地)は下へ下るので、天地分裂を表す。

※戦時捕虜虐殺の事例
長平の戦い(BC260年 )~秦が趙の捕虜20万人を虐殺した。
鉅鹿(きょろく)の戦い(BC207年)~楚が秦の捕虜20万人を虐殺した。

ブラ高野~ウナギ塚

ウナギ塚は、河口に仕掛けられたウナギ捕獲の罠である。
ウナギは海でも川でも生息できるが、海水と真水が混じる汽水域で体を慣らす習性を利用するのである。
ウナギ塚漁は、あらかじめ満潮時に20cm程度の石で塚を造り、干潮時に塚に入り込んだウナギをウナギばさみで捕獲するという珍しい漁である。

室見川のウナギ塚

易経の三大思想 その1 変化と循環

1 概説
易経を特徴づけているのは変化と循環、安定及び平和志向の三つの思想である。

2 変化と循環の思想
⑴ 概要
陰陽消長十二卦及び水火既済と火水未済の卦で表現されている変化と循環の思想は次の通りである。

⑵ 陰陽消長十二卦
いのち(命)は、発生、成熟、死滅、再生の営みを繰り返すが、これを象徴したのが易経六十四卦のうち下記の陰陽消長十二卦である。
易経は、天地の法則は陰と陽の絶え間ない循環と変化である、と考えているのである。
冬が去ると、春になる。陽気が増大し夏になると、次は秋が来て、また寒い冬になる。
自然の動きは、陰陽消長十二卦で説明するように地球上のルールなのである。

陰陽消長十二卦の流れ
坤為地(大地)➡地雷復(復活)➡地澤臨(希望)➡地天泰(安泰)➡ 雷天大壮(加速)➡澤天夬(決断)➡乾為天(栄華)➡天風姤(出会い)➡天山遯(引退)➡天地否(否定)➡風地観(観察)➡山地剝(崩壊)➡坤為地(大地)へ戻る

⑶ 大成卦のうち水火既済と火水未済
ア 水火既済
既済は、亨(とお)ること小なり。貞(ただ)しきに利ろし。初めは吉にして終りは乱る。
・解釈~既済は、小事は通る。ただしければよい。初めは吉で終わりは乱れる。

水火既済は、完成という意味である。初爻から上爻まで陰陽が交互に並び理想の形になっている。
終りは乱る、と書いているが、この意味は、完成したものが永続することはなく、やがて消滅し再生と循環を繰り返すことを暗示しているのである。
水火既済が易経の最後である64番目ではなく63番目にあるのは、これで終わったわけではない、宇宙は永遠に循環を続ける、という易経からのメッセージを形にして示しているのである。

イ 火水未済
未濟は、亨る。小狐汔(ほと)んど済(わた)らんとして、その尾を濡らす。利ろしき攸(ところ)なし。
・解釈~未濟は、通る。子狐が川を渡って尻尾を濡らす。いいことはない。

火水未済(びせい)は、未完成という意味である。
完成を意味する水火既済で全巻を終わらず、いまだ成らずという火水未済をあえて最後の64番目に置いて万物流転の様相を表したのは、易経作者の英知である。

ブラ高野~さざれ石

さざれ石は、本来小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の破片が集まって、その隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が入り込み、一つの大きな岩の塊に変化したものである。
これを石灰岩の一種である石灰質角れき岩という。
「君が代」では、この岩を指して「さざれ石の巌(いわお)となりて」、と永遠の象徴としてうたっているのである。

さざれ石(島根県松江市)

立春への疑問 その2

⑴ 閏月(うるうづき)の設置
前述のとおり、太陰暦の1年分は354日(29.5日×12月)なので、地球が太陽の周りを一周する365日に年間で11日足りず、3年で33日分のズレが生じることになる。観測の結果、太陽暦で19年たつと、月と太陽の周期が一致することが判明している。
では、太陽暦の19年は、太陰暦で換算すると、何年になるのだろうか。
太陽暦の19年分は、365.242194日(太陽暦の1年)×19年=6,939.601686日
太陰暦の19年分は、
354.367068日(太陰暦の1年)×19年=6,732.974292日
6,939日から6,732日を引くと、207日になる。
207日を太陰暦の1月分である29.5日で割り戻すと、207日÷29.5日=7.01月→約7月分不足する。
これで太陰暦に換算した場合、19年で7月足りないことがわかる。
太陽暦では4年に1回閏年を置くが、太陰太陽暦では、19年間のうち7月分の閏月を加えて太陽の動きに暦を合わせる、という段取りになるのである。
実例をみると、天保三年(西暦1832年)壬辰暦では、大の月、小の月及び閏月は、11月に閏月として大の月(30日間)を追加しているので、1年間が13か月あり、日数も30日間増えて384日となる。

⑵ 二十四節気(にじゅうしせっき)の導入
閏月の設置により季節のズレを修正するものの、19年かけてズレを予測しては閏月を増やして調整するだけなので、これは誤差が完全に無くなるということではない。
そこで、毎年太陽の動きを読み取った季節情報をカレンダーに書き込んで注意を喚起すればいいわけで、これら季節や気候をあらわす、情感にあふれた詞(ことば)を二十四節気(にじゅうしせっき)という。
毎日太陽の動きを観測して、地球上空の太陽が通る軌道である黄道(こうどう)を記録しておけば、太陽の位置によって暑くなったり寒くなったりする時期がわかるので、季節の到来を予測できるようになるのである。
黄道(こうどう)は円を描いているので、これを360度として24等分し、それぞれに春の始まりを意味する立春や昼と夜の時間が等しい春分と秋分、田植えの時期を知らせる芒種(ぼうしゅ)という名称をつけ、太陰暦に当てはめて季節を知らせれば飛躍的に使いやすくなるのが道理である。
それでも立夏が太陽暦の5月5日頃、立秋が8月7日頃で季節感のズレを生じる場合がある。
そこで、もう一工夫して新たにつくった暦日を雑節という。
二十四節気(にじゅうしせっき)のうち、主な暦注は次の通りである。
なお、日付は太陽暦換算である。

立春(りっしゅん)~暦の上では春(2月4日頃)
啓蟄(けいちつ)~冬ごもりの虫たち目覚める(3月5日頃)
春分(しゅんぶん)~昼夜等しき長さ(3月20日頃)
立夏(りっか)~薫風そよぎ、夏はじまる(5月5日頃)
夏至(げし)~1年で一番昼が長い(6月21日頃)
大暑(たいしょ)~1年で最も暑い頃(7月23日頃)
立秋(りっしゅう)~秋の気配立つ(8月7日頃)
白露(はくろ)~野草に露がつく(9月7日頃)
秋分(しゅうぶん)~昼夜等しき長さ(9月23日頃)
立冬(りっとう)~冬の気配立つ(11月7日頃)
大雪(だいせつ)~真っ白な雪、空も地も覆う(12月7日頃)
冬至(とうじ)~最も日が短い、冬のさなか(12月22日頃)
大寒(だいかん)~1年で一番寒い (1月20日頃)

⑶ 雑節(ざっせつ)による補完
黄河流域で生まれた、直輸入の二十四節気を補助する意味で、日本列島の風土、生活習慣を表す特徴を暦に記入すると、格段に使い勝手が良くなり、梅雨入りを知らせる入梅や嵐の到来を告げる二百十日などがある。これらの名称を雑節といい、日本独自の暦日である。

節分(せつぶん)~立春の前日、季節を分ける日(2月3日頃)
彼岸(ひがん)~先祖へ感謝する日、(春分の日・秋分の日)
社日(しゃにち)~産土神へ感謝する日(3月22日頃、9月18日頃)
八十八夜(はちじゅうはちや)~立春から数えて88日目(5月2日頃)
入梅(にゅうばい)~梅雨入り(6月11日頃)
半夏生(はんげしょう)~梅雨明け(7月2日頃)
土用(どよう)~立春、立夏、立秋、立冬の前日までそれぞれ18日間、
二百十日(にひゃくとうか)~立春から数えて210日目(9月1日頃)
二百二十日(にひゃくはつか)~立春から数えて220日目89月11日頃)

ブラ高野~シロウオ漁

毎年春になると、室見川の河口に梁(やな)といわれる仕掛けが現れる。
竹で編んだ梁は古来から魚を捕る仕掛けとして使われてきたもので、室見川でも江戸時代から300年以上の歴史があるといわれている。
これで満潮の上げ潮に乗って産卵のため川をさかのぼるシロウオを捕まえるのである。
現在、福岡県でシロウオ漁が行われているのは室見川だけで、漁は春が終わるまで続く。

室見川の梁

立春への疑問 その1

九星気学による運勢判定の1年間は、立春(ほぼ2月4日)から始まり翌年の2月3日までであるが、立春とはよく聞くものの、春が始まるのになぜ寒いのか、わかったようで明確に説明できない概念である。本資料は、立春の概念を調査した結果報告である。

真冬の真只中なのになぜ立春というのか。太陰暦は、なぜ季節感がずれているのか。
忠臣蔵の討ち入りは、太陰暦で12月14日(西暦1703年)であるが、現在の太陽暦では1月30日となり、300年前とは約1月半のずれがある。

易経の19番目である地澤臨の8月は、太陽暦換算で9月か10月である。
地澤臨では、
「臨は、元いに亨りて貞しきに利ろし。八月に至れば凶有らん」

太陰暦の基礎的な仕組みは次の通りである。
(1) キーワード
太陰とは、月のことをいう。
太陰暦は、月の満ち欠けを基につくられた暦であるが、太陰暦を理解するキーワードは、月の満ち欠けが一巡する29.5日という数字と朔(さく)、望(ぼう)、晦(つごもり)という闇夜や月夜を意味する名称である。
太陰暦では、毎月の初日は全く月が見えず、月の見えないこの状態を朔(さく)といい、
毎月の1日を「朔日」とも呼び、八朔といえば、8月1日のことを指しているが、八朔という夏ミカンの名称は太陰暦に由来しているのである。

快晴の夜でも月が見えない日を毎月の1日と設定するのである。
この時の見えない月をなぜか「新月」というものの、ネオンサインはおろか電灯もない時代は深い闇に包まれたまま真っ暗な長い夜が続いた。
明智光秀が織田信長を討ち取った本能寺の変は、天正10年6月1日(西暦1582年6月20日)の夜であった。この日は太陰暦の1日なので、新月すなわち月がない闇夜であった、暗殺の計画性は歴然としていたのである。
月の運行を見ると、満月になるまで15日間かかるので、満月が出る日を毎月の15日に設定する。
夜空を見上げて、満月が出ていると、この日は、太陰暦でいうと必ず15日になる。
夜は、中天に輝く月が煌々と光を放ち周囲を真昼のように明るくするが、この明るい夜を招く満月の状態を望(ぼう)という。

日本の行方を決定し、世界史にも影響した関ヶ原の戦いー日本年号の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の夜は、雨や曇りでなければ、15日なので日本各地で満月が出ていたことがわかる。もっとも関ヶ原周辺は、夕方から雨模様だったようである。
晦(つごもり、かい)は、くらます、わかりにくい、という意味である。
月末(30日か29日)になれば、月は再度見えなくなる。これを晦(つごもり)といいまたは、みそかとも読むが、今でも年の終わり12月の31日を大晦日(おおみそか、おおつごもり)というのは、太陰暦の名残りである。

(2) 太陰太陽暦
太陰暦の1箇月を1朔望月と呼び、1朔望月は約29.5日なので、12朔望月(1年間)は、約354日となる。
そこで太陰暦をつくる場合は、30日ある月(大の月)を6個、29日しかない月(小の月)を6個設けることになる。
そうすると、
30日×6個=180日
29日×6個=174日
180日と174日の合計で、ちょうど354日である。
ところが、月の満ち欠けを基にした太陰暦は、比較的容易に作成でき、月の形さえ見れば日にちの見当がつくという便利な半面、太陽の動きを反映していないので、種まきや収穫の時期がわからず、季節感や生活実感とも違って使い勝手が悪いので、これを補正した暦を太陰太陽暦という。

太陰太陽暦は、太陰暦の一種である。
補正の方法は、三つあって、一つは閏月(うるうづき)の設置、二つ目は二十四節気(にじゅうしせっき)の導入、三つ目は雑節による補完である。

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