高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

紙垂(しで)

紙垂(しで)は、注連縄や御幣についているギザギザの形をした紙飾りです。

相撲では、横綱が土俵入りの際、化粧まわしの上に巻いています。

護摩焚きにはたびたび参加していますが、炎の先が紙垂(しで)についているのにかかわらず、燃え上がるところを一回も見たことがありません。

不思議というほかありませんが、紙垂(しで)に火がつかない理由は、三密がどうのこうの、とかいう理屈はともかく、この場合は、考えてもわかるはずもなく、わからないことはわからないこととして、不思議は不思議として、受け止めるのがよさそうです。

ブラ高野シリーズ~戸畑山笠

戸畑山笠は、約200年前に、疫病の終息を飛幡八幡(北九州市戸畑区)へ感謝するために村人がお祝いをしたのが始まりで、同じ山笠が、昼間は、幟山笠として各地区を練り歩き、夜になると、ピラミッド型にちょうちんをつけた山笠となって競演するというめずらしいお祭りです。

夜のちょうちん山笠も悪くはないのですが、幟山笠は、ラシャ地とビロードの縁取りがある紅白12本の幟旗を立てて、表は、奉書紙でつくった簡素な四つの大菊花、見送りは、金糸銀糸で縫われた鷲や鳳凰の円形刺繍、山笠台の四面を覆う幕は、緋のラシャに武者絵の縫い取り、神聖にして華麗、優雅にして格調高く、神社の境内に集合した風景は、比類ない美しさです。

7月28日が楽日となります。

西小山笠(表)
西大山笠(表)

西小山笠(見送り)
西山笠(見送り)
神社境内に大集合(表)
表

神社境内に大集合(見送り)
見送り2

神社境内に大集合(見送り)
見送り
那須与一
那須与一
鯉の滝登り
鯉の滝登り
宝船
宝船のデザイン
 

求道精神

浄土三部経のうち、無量寿経では、安楽浄土の教主である法蔵菩薩の言葉として、大乗の求道精神を以下のように書いています。

「たとい、身は、もろもろの苦毒(くどく)の中に止まるとも、わが行、精進して、忍んで(つい)に悔いざらん」

意味は、
「たとえ、私は阿鼻地獄や無間地獄にいき、止まることになったとしても、私の誓願をひるがえすことなく、忍耐力を発揮して最後まで後悔することはないであろう」

織田信長の比叡山焼き討ちをきっかけに、日本の武装宗教勢力は政治権力に全面降伏し、おかげで宗教戦争もなくなりましたが、かって、唐まで学びに行った空海や最澄、また鎌倉の開祖たちが持っていた求道精神も同時に失ってしまったようです。

現代風に政教分離、とみるといいことでもあり、しかし真摯な求道精神はどこに行ったのか、と思うと情けないことでもあり、時代によっても、立場によっても、意見、評価が分かれ、物事には両面性があることがわかります。

ブラ高野シリーズ~出雲大社

出雲大社の巨大さは現地へ行って、実際に社を見なければわかりません。

いくつかの謎をご紹介しましょう。

1 国譲りの謎
昔も今も、戦争もせずに平和裡に他国に領土を譲るなどあり得ないのは常識以前の話です。

言うまでもなく、領土は民族の存立基盤だからです。

国譲りといえば、戦国の世にわずかに斉藤道三による遺言状があるだけです。

北方領土返還運動のように50年過ぎても領土への執着は衰えることがなく、評価はともかく、イスラエルに至っては1000年単位の時間をかけても取り戻すのが領土というもののあり方なのです。

2 四拍手の謎
四拍手をすると、妙な気持ちになって落ち着かないのはなぜでしょうか。

これは、大国主を死の国からよみがえらせないための呪術であるという井沢説が説得力を持っています。

とすると、参拝者は、知らず知らずのうちに勝利者である大和の意向に手を貸していることになります。

四という数字は縁起がいいのだ、という意見が正しいとしても、出雲大社ではなぜ4回手をたたくのか、という疑問への解答にはなりません。

3 高さの謎
約1,000年前の学習書「口遊」(くちずさみ)では、「雲太、和二、京三」という暗記用の言葉覚えがあります。

ということは、雲太(出雲大社)は、和二(東大寺大仏殿~高さ45m)より大きくて高かったということを表しています。

16丈、つまり48mの高さがあったという傍証が平成12年に発掘されました。

直径1.3mの柱を3本束ねた宇豆柱が、掘立状態のまま敷地内から出てきたのです。

ご祭神の変遷があったにしろ、敗者である大国主を祀る神殿が、なぜ日本一の高層建築物なのか、という理由は、大和の怨霊信仰によるものである、という井沢説で説明が可能です。

4 ご神座の謎
本殿の正面は、南向きですが、大国主のご神座は、西に向いています。

南に対面しているのは、大和から派遣された客神5柱です。

したがって、参拝者は、客神5柱に礼拝していることになり、大国主は、そっぽを向いている形式になっています。

客神の神格が何であれ、新幹線とバスを乗り継ぎ、はるばる出雲まで行って、なぜ大和の神々に礼拝しなければならないのでしょう。

発掘された宇豆柱
発掘された宇豆柱

地上高48mの神殿模型
高さ48mの神殿模型

巨大な千木と勝男木
巨大なちぎとかつおぎ

西側壁面に設置された遥拝施設
西側壁面の遥杯拝施設

日本第一の観相家

水野南北は、江戸時代後半の人で、日本第一の観相家です。

10代は、大変なワルで、酒はもちろん、博打、喧嘩、刃傷沙汰が当たり前の生活をしていました。

ある人相見から死相を指摘され、助かりたい一心で近くの禅寺で出家を志しました。

和尚との約束がきっかけで麦と大豆だけの食事を一年間続けたところ、再会した人相見から死相どころか運勢自体が向上・改善しているといわれたことで、本格的に観相研究を始めました。

無給で髪結いの見習いや湯屋の三助をしながら、世間話の内容と人相や体型の特徴を比較して、幸運・不運の原則を引っ張り出したり、果ては体毛の有様まで運勢研究の対象にするという何とも前代未聞の勉強ぶりであったと伝わっています。

生命の存在は、幸運の結果です。

食は、生命維持の手段でありながら、実は必要以上に食の欲求にこだわると、逆に幸運すなわち生命を縮める機能を持っているようです。

小食や節食ということではなく、南北先生のご指摘通り、食と運勢は表裏一体である、という原則を念頭に、食を慎むという姿勢を心がけたいものです。

ブラ高野シリーズ~博多山笠

博多山笠は、福岡博多区にある、創建以来1300年近くになる櫛田神社の神事ですが、普通の山笠と違うのは、山車に車輪がついていないため、いったん人力で担ぎあげてから、地面にガタガタ当たりながら、こするようにして全速力で前に進めていきます。

担ぎ手は、担ぐ、というより山車の推力に引っ張られるので、必死になって命綱であるかき縄にしがみ付いているのが実情です。

もしも先棒にいて途中でかき縄を離すと、重さ1トンの山車にぶつけられてまず命はないでしょう。

若い時に中洲流(なかずながれ)を担いだことがありますが、思い出すたび冷や汗ものです。

素盞嗚命は、荒事をお喜びになるようです。

今年も7月15日午前4時59分、櫛田神社の境内を一周する清道回りからスタートします。

三番山笠 大黒流(表)
大黒流表

三番山笠 大黒流(見送り)
大黒流見送り

清道回りの中心点(櫛田神社境内)
清道の中心

避暑法

雨と湿気ですごしにくい梅雨のおかげで、おいしい水を飲んで、米を食べることができます。

梅雨明けの空をみると、初夏らしく積乱雲のような雲が浮いています。

昭和30年代は、市街地でも木造住宅が多く、扇風機さえないまま、夏を乗り切るのが普通でした。

友人の家に遊びに行くと、扇風機が置いていたので、金持ちだなぁ、と思ったことがあります。

当時の避暑法は、南部風鈴をぶら下げて涼しさを感じたり、庭に打ち水をしたり、トマトを食べて体を冷やしたり~50年前の避暑法はかわいいものでした。

それにしても、夏はもっと凌ぎやすかったようです。

ブラ高野シリーズ~元寇防塁

福岡市地下鉄1号線西新駅近く、修猷館高校の外壁西端にある「史跡 元寇防塁 入口」という石碑を北へ曲がって行くと、2分程度で道路左手に芝生の空き地が見えてきます。

元寇防塁(福岡早良区西新)の史跡です。

築造当時の高さは、2.5mから3mあったそうです。

博多湾沿岸の今津から香椎まで約20㎞にわたって波打ち際に築かれた防塁は、今でも福岡早良区西新、百道、西区生の松原に残っています。

内部は、粘土や砂を利用して突き固め、外側を岩で覆ったもので、急造したことがわかります。

福岡市教育委員会によると、福岡早良区百道の防塁は、岩石の風化により、史跡崩壊の恐れがあるため、あえて発掘していないそうです。

西暦1281年(弘安4年)、元・高麗連合軍(東路軍)は、軍兵約4万人、軍船約900隻で再度襲撃してきました。

九州の名門少弐氏をはじめとして、主に肥前・肥後、豊前・豊後、筑後、薩摩、伊予の地頭・御家人・海賊衆が戦いに参加しましたが、戦法や武器の違いがありつつ、善戦したなかで防塁の防御力が立派に働きました。

元・高麗連合軍はやむを得ず志賀島に上陸したものの、志賀島は今でもそうですが、樹林に覆われた小高い山で、地勢を利用した日本側の襲撃には敵うはずもなく軍船に逃げ込むという戦いをしていました。

日本側のしつこいアタックと威力を発揮した防塁の存在により、嫌気がさした元・高麗連合軍(東路軍)は、博多湾からの上陸を断念し、長崎の鷹島沖に援軍とともに集結していたところを大暴風雨に遭遇し、溺死者、軍船の沈没多数、戦闘能力を喪失しはるか海上へ撤退していきました。

史跡 元寇防塁 入口
元寇防塁入口(西新)

史跡 元寇防塁(福岡早良区西新)
史跡(西新9

陸側から見た元寇防塁(福岡早良区西新)
陸側からもた防塁(西新)

海側から見た元寇防塁(福岡早良区西新)
海側からみた防塁(西新)

保存状態良好、元寇防塁(福岡早良区西新)
保存状態良好(西新)

防塁内部
防塁内部

海側から見た元寇防塁(福岡早良区百道)
陸側からみた防塁(百道9

 

言霊信仰

学生の時分、学習塾で英語教師のアルバイトをしていましたが、高校受験を控えた子供たちを激励するために、ベートーベンの手紙からつくられた「悩みを突き抜け歓喜に至れ」というコピーを書いて教えると、「やる気になった」とか「元気が出てくる」と好評で、感謝された記憶があります。

言葉自体がエネルギーを持つという言霊信仰にはまると、昔の平安貴族のように、何にもできずひたすら神だのみ、仏だのみになったり、また旧日本軍の参謀本部や軍令部のように、軍事研究放棄、国土防衛さえできないような無責任組織ができます。

符号・記号あるいは音声である言葉に霊やパワーなどあるはずがなく、ただその発信した結果として残る、巨大な影響力に驚くことがあるだけなのです。

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