歴史上の人物のうち、徳川家康公の悪印象は格別ですが、ただ悪賢く、狡猾なだけの人物ではありません。
1573年、小牧・長久手の戦いでは、同盟者の織田信孝が一言の断りもなく豊臣秀吉と休戦したため、徳川家康公は、戦いの継続はできないと判断しました。
そこで、彼は何をしたか?
なんと敵である豊臣秀吉に戦闘中止を寿ぐ祝賀使を送ったのです。
内心は、はらわたが煮えくりかえるような思いであったに違いありません。
これにより、豊臣秀吉は、徳川討伐の口実を失いました。
忍耐力の勝利というべきでしょう。
その生涯でただ一度無茶をしたのは、三方ヶ原の戦いで武田軍に突入した時です。
三倍の大敵に向かってなぜ突撃したのか。
戦国の世は家を守るためには何でもありという時代で、信長と信玄のうち、勝者に味方するのが普通ですが、しゃにむに強大な敵陣へ突撃し、はねかえされ命からがら浜松城へ逃げ帰りました。
これが逆に信用をつくる好結果となり、徳川殿は律儀者であるという評判を生み一生涯のイメージとなりましたが、それにしても信長との盟約を守るためとはいえ、籠城せずに野戦を挑んだ動機も理由も原因もはっきりしません。
徳川家康公の姓名判断をしてみると、運勢は、
1 頭領富貴
2 長寿富貴繁栄
となり、まずは順当ですが、宿命をみると、
「上伸極めて困難、身心を労し神経衰弱・・・甚だしきは発狂・・・」
となります。
「上伸極めて困難」は、信長、秀吉に臣従せざるを得なかったことが思い浮かびますが、問題は、「甚だしきは発狂」という判定です。
戦いの切所では爪をかむ癖があり、気の細いこの人は、自分の狂気に気づいていながら、一生涯隠し続けたのではないか、という思いがしてなりません。
しかしながら、徳川260年は、島原の大農民一揆を除いては、日本列島では、概ね平和を享受することができた期間でした。