高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~鴻臚館(こうろかん)

鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した施設で、9世紀に博多・大阪・京都の3ヶ所に置かれました。

2004年に国指定史跡となった博多の鴻臚館は、当初、筑紫館(つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期に唐の「鴻臚寺」にならって「鴻臚館」と名を改めました。
鴻臚寺の「寺」は役所のことで、鴻臚とは、賓客の来訪を大声で伝達するという意味だそうです。
当時、延長15~16km、側溝付き幅10m~20m程度の立派な直線道路が鴻臚館から太宰府まで通っていたそうです。

鴻臚館跡展示館には、建物跡や復元模型、大量に出土した焼物などの遺物が展示されています。
なかにはガラス製のコップやイスラム産の焼物といった西アジアの物も含まれており、この地は昔から海外交流が盛んであったことがわかります。

繋辞下伝~八卦の由来


八卦は誰がつくったのか、繋辞下伝では、次のように解き明かしています。
「むかし天下に王として君臨していた包犠氏は、上を仰いでは天体の現象を観測し、下を見ては大地の形状を観察し、鳥獣の模様や土地の有様を見て、また近い所では自分の身体を参考に、遠い所では、物のかたちを見て初めて八卦をつくったが、八卦により、天地神明の徳を反映させ、万物の情報を分類したのである」
八卦は、万物の情報を分類し、整理するため創られたのかと理解すると、シンクロ二シティ(偶然の一致)に思い当たるフシがあります。

○書き下し文
「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いですなわち象を天に観、俯してはすなわち法を地に観、鳥獸の文と地の宜とを観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳を通じ、もって万物の情を類す」

ブラ高野~母里太兵衛(もりたへい)銅像

母里太兵衛(もりたへい)は、福岡藩黒田家の武将です。
福智山系につらなる、直方市にあった鷹取城城主、知行高は18,000石、槍術の使い手、黒田二十四騎の中でも特に重用された八虎の一人です。

筑前今様黒田節に謡われ、現在は福岡市博物館に所蔵されている名槍の日本号を福島正則から呑み獲ったエピソードで知られています。

「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」と有名な歌詞が銅像(博多駅博多口)の台座に刻まれています。

母里太兵衛銅像(博多駅博多口)

 

 

八卦と卦の構成、九星、五行の読み方と順番について

八卦と卦の構成、九星、五行の読み方と順番については、次のようになります。

⑴ 八卦の読みと順番
乾(けん)、兌(だ)、離(り)、震(しん)、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)

⑵ 卦の構成
易経冒頭の乾為の卦は、けんかけんしょう(乾下乾上)、最後六十四番目の火水の卦は、かんかりしょう(坎下離上)、といいます。
上は、じょう、ではなく、しょう、と読みます。

⑶ 九星の読みと順番
一白水星(いっぱくすいせい)、二黒土星(じこくどせい)、三碧木星(さんぺきもくせい)、四緑木星(しろくもくせい)、五黄土星(ごうどせい)、六白金星(ろっぱくきんせい)、七赤金星(しちせききんせい)、八白土星(はっぱくどせい)、九紫火星(きゅうしかせい)

⑷ 五行の読みと順番
木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)
金は、きん、ではなく、ごん、と読みます。

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