高野白山の九州易占塾

徒然の記

人間探求~姓名判断その1 石田三成の場合

西暦1600年、石田三成は、関ヶ原で徳川家康と戦うも敗北、斬首された。
三才五行の基礎運が教えるように、生涯の最後は「急変没落(きゅうへんぼつらく)」となったが、この人は、最後まで豊臣家を守り抜こうとした正義の人である。

・五格部算定(数理の吉凶)
人格(主運)   8画  意志堅固~吉
地格(前半運) 10画  空虚逆難~凶
総格(後半運) 20画  厄難凶禍~凶
外格(副運)  12画  薄弱無力~凶
天格~名字は先祖伝来であるので評価しない。

五格部算定では、吉一つ、凶三つである。

・三才五行の吉凶~天格10画、人格8画、地格10画
成功運  何事も意の如(ごと)く万事順調目的を達成す。婦人にも吉祥~ 吉
基礎運  苦しむ可(べか)らざるに苦しむ、急変没落(きゅうへんぼつらく)の悲運あり~凶

三才五行の吉凶では、吉凶一つずつである。

 

 

 

ブラ高野~石炭会館

石炭会館は明治38年に若松石炭商同業組合の事務所として洞海湾岸に建設された洋風建築である。
昭和19年には若松石炭商同業組合が社団法人若松石炭協会となり、その後も株式会社石炭会館として現在協会事務所に使用されている。

建物の構造は木造2階建で、外装はモルタル塗だが、壁面には目地があるので、ぱっと見ると石造建築物のようである。
玄関は、小さなポーチが真ん中に位置する左右対称の形をしている。
正方形の台座にのせた、古代ギリシャ建築様式のドリス式で立てられた四本の円柱があることで、建物の対称性が際立って見える。
古き良き時代の建築物である。

石炭会館(北九州市若松区)

観相の偉人 水野南北の軌跡(きせき)

1 観相との出会い
観相の偉人である水野南北(1760年~1834年)は、幼い頃両親を失って孤児となり、親戚に引き取られるが、10歳の頃から酒を飲み始め、喧嘩ばかりしていたという。
18歳で酒代欲しさに悪事をはたらき牢屋に入った時に、入牢者の人相について興味深い事実に気づいた。
罪人として牢の中にいる人の相と、普通に生活している人の相の間に、明らかな違があることに気づくのである。
これがきっかけとなり、水野南北は観相に関心を持つようになった。

2 剣難の相
牢屋を出た後、水野南北は、当時大阪で名高かった人相見を訪れ、自分の相を見てもらった。
すると、「剣難の相であと1年の命」と宣告されてしまった。
助かる方法はあるかと尋ねたところ、唯一の方法は出家であると言われた。
水野南北は、稀に見る悪相・凶相の持ち主だったのである。

3 年間の食事
そこで禅寺を訪れて入門を依頼するが、住職はその悪人面を見て断ろうと思い、「向こう1年間、麦と大豆だけの食事を続けることができたなら入門を許そう」と答えた。
助かりたい一心の水野南北は、この条件を忠実に実行に移す。
冲仲士をしながら、1年間、麦と大豆だけの食事をするのである。

4 観相家への道
麦と大豆の食事を1年間続けた南北は、禅寺の住職のところへ行く途中に再び例の人相見を訪ねてみた。
すると人相見は,「あれほどの剣難の相が消えている。貴方は人の命を救うような、何か大きな功徳を積んだに違いない」と言った。
麦と大豆の食事を1年間貫き通したことを話したところ、それが陰徳を積んだことになって、凶相を変えてしまった、というのである。
これで禅寺に行く必要のなくなった水野南北は、自分も観相家の道を志そうと決めた。
水野南北21歳の時である。

5 勉強の方法
水野南北は、言い伝えや書物で勉強するだけでなく、散髪屋の修業をしながら3年間人相を研究し、続いて全身の相をみるため風呂屋の三助を3年間、火葬場のおんぼうとなってさらに3年間、死体の骨格や体格などを詳しく調べ研鑽(けんさん)を重ねた。

6 慎食
運勢の強弱は食にあり、とひらめいた水野南北は、「我れ衆人のために食を節す」と決意し、生涯にわたって慎食、すなわち少量の食物を大切にしながら食べた。主食は麦、副食は一汁一菜であった。
米は一切口にせず、餅さえ食べず、好きな酒も、1日1合以上は飲まなかったという。

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