下記は、秦の捕虜二十万人を虐殺したときの項羽と部下の黥布(げいふ)らの様子を史記の項羽本紀(こううほんぎ)から抜粋したものである。
司馬遷は、「新安城の南に阬(あな)にす」と大虐殺事件をさらりと書いている。原文では「阬(あな)にす」となっているが、殺し方は穴埋めにしたのではなく、武器を持たない捕虜集団を夜襲して深い谷底へ突き落した、とみれば二十万人が百万人でも話は簡単である。当時でもこの殺害方法は例がなく独創的であったためか、該当する概念、用語がなかったので、まとめて「阬(あな)にす」と書いたのであろう。
たしかに「阬(こう)」とは穴埋めにする、という意味であるが、黄土谷を知らずに文字通り穴を掘って埋めた、と受け取ると人力だけで二十万人分の巨大な穴を掘れないので、ネット情報のように虐殺数が七~八万人という誤った見方になる。
凸凹した谷間が続いている、という黄土地帯の地形を利用した項羽の例を見ない大量殺人法に比べると、ナチスドイツは、少しづつ数百人単位でユダヤ人をガス室で殺害し、遺体を焼却炉で焼いて処理した。困難なのは、殺人より遺体処理なのである。
なお、黄土地帯を貫流する黄河の全長は5,500km、日本列島の全長は沖縄を含めても3,300kmである。
史記:
「章将軍等、我が属(ぞく)を偽りて諸侯に下れり。今善く関に入り秦を破らば、大いに善し。即(も)し能(あた)わずんば、諸侯、吾が属(ぞく)を虜(とりこ)にして東し、秦、必ず尽(ことごと)く吾が父母妻子を誅(ちゅう)せん」と。
諸将、密(ひそ)かに其の計を聞き、以って項羽に告ぐ。項羽、乃(すなわ)ち黥布(げいふ)・蒲(ほ)将軍を召して、計(はか)りて曰(いわ)く「秦の吏卒尚(な)お衆(おお)く、其の心、復せず。関中(かんちゅう)に至りて聴(き)かずんば、事、必ず危(あや)うからん。これを撃殺(げきさつ)して、独(ひと)り章邯(しょうかん)・長吏(ちょうし)の欣(きん)・都尉(とい)の翳(えい)と与(とも)に秦に入るに如かず」と。
是(ここ)に於いて、楚の軍、夜撃(う)ちて、秦の卒二十余万人を新安城の南に阬(あな)にす」
現代語訳:
「章将軍たちは、われらをだまして諸侯の軍に降伏してしまった。もし函谷関(かんこくかん)から攻め入って、秦を討ち破ればおおいに結構なことだ。もし秦に勝てなかったら、諸侯はわれらを捕虜として東に連れ去るだろう。そうなれば、秦は必ずわれらの父母妻子を皆殺しにするに違いない」
項羽の諸将は、秦の士卒の密談を密かに盗み聞き、項羽に報告した。項羽は、黥布(げいふ)と蒲(ほ)将軍を呼んで、対策を相談した。
「秦の士卒は、降伏したとは言え、人数は多く、心から帰服しているわけでもない。関中に攻め入ってから反抗されたのでは、必ずや重大な事態に陥ろう。むしろ今のうちに撃ち殺して、将軍の章邯(しょうかん)、副将の司馬欣(しばきん)、都尉の董翳(とうえい)だけを連れて、秦に入った方がいい」
かくて楚軍は夜襲をかけて、降伏した秦の兵卒二十余万人を新安城の南で穴埋めにして殺した。
出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~項羽本紀 207頁~208頁抜粋
次に、捕虜にした秦兵の虐殺方法を詳細に描いている、司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」を引用しよう。
項羽と劉邦:
「われわれは、どうなるか」という狐疑が、秦兵を動揺させ続けている。かれらは楚軍とともに、その郷国である秦(関中)に攻め入るのだが、この点についても気がむかなかった。といって秦の兵には秦帝国への忠誠心などはさほどにはない。むしろ楚人の関中入りがおそらく成功すまいという見方の方が強く、楚人が関中の秦兵に敗れた場合、かれら楚人はふたたびこの帰順秦兵を捕虜として中原へつれ去り、関中に居る帰順秦兵の家族は、秦帝国の手で殺されるにちがいないと猜疑していた。
「いっそ、反乱をおこすか」
~(中略)~
まずいことがおこった。ある夜、秦兵の宿営地を巡回していた楚人の将校がこの種のささやきを聴いた、というのである。この聴き込みは、項羽まで上申された。
~(中略)~
范増(はんぞう)は、黥布(げいふ)を本営によび、密議した。
以上の事態は、この大軍が新安に到着する直前までのことである。
新安での秦軍二十余万の宿割りは、黥布の配下の将校がきめた。
城外で、しかも地隙(ちげき)の多い地域が、野営地として指定された。垂直断崖でかこまれた四角い黄土谷が無数にあり、地の底をのぞかせていた。
深夜、黥布軍が秘密の運動をした。かれらは足音をしのばせて、黄土谷のない平原にあらわれ、捕虜たちの宿営地の三方をかこみ、一方だけをあけたのである。
次いで、一時に喚声をあげ、包囲をちぢめた。この深夜の敵襲で、二十余万の秦兵たちがパニックにおち入った。
かれらは一方にむかって駆け出し、たがいに踏み重なりつつ逃げ、やがて闇の中の断崖のむこうの空を踏み、そこからは人雪崩(ひとなだれ)をつくって谷の底に流れ落ちた。
~(中略)~
ジェノサイド
大虐殺は、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。
さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮(さつりく)側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者(ひさつしゃ)側に恐慌をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狡猾(こうかつ)な方法は、世界史上、この事件以外に例がない」
出典:司馬遼太郎全集45「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)
目次~秦の章邯将軍 237頁~238頁抜粋
※参考
死者二十万人という人数は、漢の高祖劉邦が項羽を論難した10項目のうち六番目にある数字なので、当時は誰でも知っていたことがわかる。
史記:
「詐(いつわ)りて秦の子弟を新安に阬(あな)にすること二十万、其(そ)の将を王とす。罪六なり」
現代語訳:
「新安では秦の若者をだましうちにして、二十万人も穴埋めにし、彼らの指揮官を王に取り立てた。これが罪の第六である」
出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~高祖本紀 320頁抜粋