高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

九星気学とは何か?

1 概要
九星気学で扱う九つの星は、一白水星や二黒土星という名称はついているものの夜空に輝く星ではなく、方角ごとに仮想された地上の星である。
幾日旅を続けても、ひたすら大地が続くだけで東西の方角はおろか自分の位置さえわからなくなるという、ただ広大な中国大陸に住む人々は、満天の星が空を支配し方位を示すのを見て、地上を支配し方角を教えるバーチャルな星を希求し九つの星を生み出した。九星気学によって我々は以下四項目について説得力ある答えを受け取ることができる。

2 方位の吉凶
東、西、南、北、東北、東南、西北、西南及び中心部あわせて九つの方位に星の名称をつけた九星とは方位の目印であり、当初中国大陸では九星術という名称であった。
しかしながら、単なる道しるべであった九つの星は、やがて人の一生を支配する生まれ星という概念の発明によって、方位の善し悪しを判断するようになる。
方位には凶方位と吉方位があるが、方位学は暗剣殺をはじめとする凶方位を探索する手法である。
凶方位の一例を挙げると、暗剣殺は突然暗闇から斬りつけられるような不運、五黄殺は持病がじわじわと悪化していくような宿命的な不幸を意味している。

3 運勢変転の原則
中国大陸では九星術という方位学であった九星は、日本に渡来し運勢や性格、相性も判定するようになり、現在では九星気学と呼ばれている、日本生まれの占術である。
運勢の強弱を教える八卦の上を生まれ星が巡回しているので、人間の運勢は八卦に引きずられ刻々と変化していくのである。
最強の運勢である中宮に生まれ星が重なった場合は、幸運が続くものの、ちょっとしたミスが命取りになるので、この時に限っては事業の立ち上げ不可、また最も運勢が弱くなる坎の位置に生まれ星が廻った年は、何をしてもうまくいかないが、勉強・研究がはかどる時期である。

4 相性判定
五つの元素から成り立つ宇宙を図案化した五行に九星を配当することにより、人間関係の相生と相剋を探究し、判定することができるようになった。
例示すると、火である九紫火星と土である五黄土星は、火は土を生み出すので相生、水である一白水星と火である九紫火星は、水は火を消すので相剋の関係となるのである。
九星それぞれの相性を知っていれば、人間関係の善し悪しはもちろん性格も把握できるので、明るい知恵をもって生きていくことができる。

5 性格判定
九星と八卦の意義を融合、応用して、生まれ年と生まれ月によって、人物の性格や個性 、生き様を探り、明らかにできるが、この手法を傾斜法という。傾斜法を使うと、なぜ人間の見かけと本質をえぐり出すことができるのか、不可思議というほかない。

6 運命学の白眉
九星気学という運命学の新たな体系をつくり上げた創始者たちは、空に輝く星をみて、地上に想定した星もぐるぐる廻りながら方位や運勢、人間性、人間関係を決めていく、と思い至ったのである。
九星は、易や五行のように確固とした思想・原理があるわけではなく、実情は、民間土俗伝承の一つであるが、データ蓄積に基づく判断法であるので、占いではないものの、特に運勢の変転、相性判定、性格判定では8割程度的中することを考えれば的中率の高さから易占とともに隠れたえにしをこの世界へ引っ張り出す、運命学の白眉といって差し支えない。

ブラ高野~杉玉(すぎだま)

杉玉は、スギの穂先を集めてボール状につくった縁起物の造形物である。
酒林(さかばやし)ともいわれる。
日本酒の造り酒屋の軒先に杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせたのである。

杉玉は、お酒の神様である大神神社(奈良県桜井市三輪)の習俗である。
大神神社では、毎年11月14日に「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきた。
大神神社がある三輪山のスギは聖なるものとされているため、スギを使った杉玉ができたのある。

その習慣が江戸時代初頭から全国の酒蔵へ広まった。
本来は杉玉を酒蔵の軒先に吊るす習わしだったが、現在では酒蔵に限らず居酒屋でも飾っていることがある。

杉玉(福岡市早良区西新)

敗者の痛み

時はBC202年漢楚興亡の末期、垓下の戦いで四面楚歌、滅亡を覚悟した項羽(BC232年~202年)の心境は、次の通り後世に伝えられている。
項羽が最後の宴で詩を詠んでいる場面を史記から引用しよう。

史記:
「項王、即ち夜起(た)ちて、帳中に飲す。美人あり。名は虞(ぐ)、常に幸せられて従う。駿馬あり、名は騅(すい)、常にこれに騎す。是(ここ)において、項王、乃ち悲歌杭慨(ひかこうがい)し、みずから詩を為(つく)りて曰(いわ)く、
力は山を抜き 気は世を蓋ふ
時に利あらずして 騅(すい)逝かず
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。」

現代語訳:
「項王は、夜中であるが於き出して。帳(とばり)の中でささやかに最後の宴を張った。美人がいた。名を虞(ぐ)といい、項王はいたく寵愛して、いつも離さず連れていた。また、世に優れた名馬がいた。名を騅(すい)といい、項王の常に乗る馬であった。項王の胸の中を名状し難い激情が駆け抜けた。項王は心の高まりのままに、みずから詩を作り、むせぶような抑掦(よくよう)をつけて歌った。

力は山を抜き 気は世を蓋ふ (ちからはやまをぬき、きはよをおおう)
時に利あらずして 騅(すい)逝かず (ときにりあらずして すいゆかず)
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん (すいゆかざるをいかんせん)
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん (ぐやぐやなんじをいかんせん)
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。

幾回か繰り返してうたい、虞美人もこれに唱和した。
一座の者もみな泣き、顔をあげられるものは誰もいなかった。」

時に利あらずして、と詠っているように項羽は、敗北の原因は自分ではなく時勢にある、と思っていたのである。
これに史記の著者である司馬遷(BC145年~BC87年)は次のように激しく非難している。

史記:
太史公曰く、みずから攻伐に矜(ほこり)り、其の私智を奮いて、古(いにしえ)を師とせず、覇王の業と謂(おも)い、力征を以って、天下を経営せんと欲せしも、五年にして卒(つい)に其の国を滅ぼし、身は東城に死せり。尚お覚寤(かくご)せずして、みずから責めざしは、過てり。乃ち「天、我を滅ぼす。兵を用うるの罪にあらざるなり」を引く。
豈(あ)に謬(あやま)らずや。
※太史公は司馬遷自身のこと

現代語訳:
ある記録官は言う、自分の功を誇り、自分の知恵ばかりに頼って、過去の教訓によろうとはしなかった。己(おのれ)のなすところこそ覇王の事業と信じ込み、ただ武力によって天下を運営してゆこうとし、五年にしてついにその国を失ったのである。東城で首かき切って死んだときでさえ、なおそのことに気が付かず、みずからを責める気持ちがなかったが、それは間違っている。しかも「天がわたしを滅ぼすのだ。戦術のまずさのためではない。」と言い張るの及んでは、誤謬(ごびゅう)も甚(はなはだ)しいというべきではないか。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~項羽本紀 264~265頁抜粋

ブラ高野~頭山 満

西新緑地(福岡市早良区)には頭山 満(とうやま みつる、1855年5月生まれ)が植えたという楠木の大樹が元気に育っている。

頭山 満は、板垣退助の影響で自由民権運動に共鳴し国会開設運動に参加して、明治維新に乗り遅れた福岡藩士を中心にした共愛会という政治結社を創設した。
1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権運動から離れて国権伸張を主張し、欧米列強の侵略に対抗するため、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続けた。
孫文の革命運動を支援したり、韓国併合など国権の推進運動をすすめ、今から思えば夢物語に過ぎない大アジア主義を実践した人物である。
この人の思想、人生行路がとりとめがなくわかりにくいのは、京都から函館まで日本列島のほぼ半分を革命戦に巻き込んだ明治維新を経験したという、明治時代の特殊性に由来するのであろうか。

頭山 満が幼少時に植えた楠木

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