高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

高木彬光氏の著書 その1~占い人生論

高木 彬光(たかぎ あきみつ)氏は、1920年生まれ、推理小説家として「白昼の死角」「刺青殺人事件」という作品で知られている。
易や九星気学に造詣が深い同氏の著書を抜粋して紹介しよう。
第1回目は、占い人生論(発行:東洋書院、2006年初版)である。

●占い人生論~占いの入門書として最適

「運命学は、決してメイファーズというあきらめの心境を教える学問ではない。人間に一倍の努力を要求し、ただその努力を、どういう方向に向けたら、最大の効率をあげられるかを教える学問なのである。」

「占いの名人にめぐり会えるかどうかには、その人の運が関係している。」

「ただそれほどの大名人なら、ほんとうに開運を求める相手に対しては、その本人が持っている力と運とを、ぎりぎりのところまでひき出し、それを最も効率的に発揮できるような方法を教えてくれるものなのだ。
占いというものは、ここまでくると、ただのあてものという行為からはなれて、進んで人生の幸福を獲得する道に直結して来る。」

ブラ高野~平和の門

平和の門は、天神(福岡市中央区)の西鉄グランドホテル前、交差点そばの歩道広場に設置された造形作品である。
作家の松永 真(まつなが しん)は、1940年生まれ、グラフィックデザイナー、東京藝術大学の教員である。
この作品には、環境問題をやさしく日常の意識に取り込んでいきたい、という松永 真の願いが込められているようである。
かつてはここに多く見られた放置自転車も、今では影も形もなくすっきりした空間になった。

平和の門

平和の門看板

 

 

易とは何か その19~周の文王

○周の文王
易の盛んになったのは、殷(いん)の末期か徳の盛んな周の初期であろうか。周の文王と殷の紂王の時期であろうか。文王のつくった易の言葉は、厳しいアドバイスが多いが、危(あや)ぶみ畏(おそ)れる者は安心させ、侮(あなど)る者は傾き衰えさせる意図が隠されている。この意味で、易の道は甚だ広大である。百の事態でももれなく触(ふ)れ尽くして余す所がない。畏(おそ)れ慎む心構えで終始すれば、結局咎なしとなる。これが易の道である。

○書き下し文
易の興るや、それ殷(いん)の末世、周の盛徳に当たるか。文王と紂(ちゅう)との事に当たるか。この故にその辞(じ)危(あや)うし。危(あや)ぶむ者は平(たいら)かならしめ、易(あなど)る者は傾(かたむ)かしむ。その道甚(はなは)だ大にして、百物(ひゃくぶつ)廢(すた)れず。懼(おそ)れてもって終始すれば、その要(よう)は咎(とが)なし。これをこれ易の道と謂(い)う

ブラ高野~西南学院大学博物館

西南学院大学博物館では、ユダヤ教、キリスト教関係の資料や西南学院の創立者であるC.K.ドージャーにまつわる品々を展示している。
生涯学習の場として、広く社会に開かれた大学博物館を目指し、聖書や教科書に出てきてもふだん目にすることの難しい品々を「目で見て実感」できるよう、実物はもちろん、海外にある資料の複製品も含めて所蔵している。
ちなみに西南学院の名称は、ミッションスクールとしては先行して設立された関西学院大学と東北学院大学を基準方位にして九州博多、西南の方位から名付けらたそうである。
この学校を西南学院と名付けたことにより、日本の東北から西南にかけて、キリスト教主義学校の鎖が完成することになった。

 

 

 

鉄製品のつくり方~鍛造(たんぞう)と鋳造(ちゅうぞう)

鍛造は柔らかくした鉄をたたいて成型し、鋳造はドロドロに溶かした鉄を鋳型に流し込む加工法である。どちらでも同じかたちの製品をつくることができる。
鍛造は電動ハンマーでたたきながら銅などの不純物を火花にして排出し、鉄の中の気泡をとるため、粘り強さが出てくるのである。
日本刀の鍛造は、木炭で1300度程度に熱して柔らかくした鉄のかたまりを金づちや小づちでたたきながら薄くのばして、さらに折り込んで団子状にして、またたたいて引き延ばすという作業を8回から20回繰り返す。
日本刀は細身で丈夫であるが、使いすぎると折れるというより、ぐにゃっと曲がるのである。
鋳型(いがた)にどろどろの鉄を流し込む鋳造は、残ったスカスカの気泡が強度を下げるのでもろくなり、したがって鋳造した鉄製品は折れやすく割れやすい。ただし、鋳造は、大量生産しやすい利点がある。

易とは何か その18~天、人、地の三材(才)

○天、人、地の三材(才)
易という書物は、内容が広大であらゆる道理を備えている。天道と人道と地道がある。
天と人と地の三材(才)がそれぞれ二つの爻に該当し、その合計が六つの爻である。六という数は他でもない、三材(才)の道なのである。そして三材(才)には、変動があり、その変動に効(なら)うという意味で爻(こう)と呼ばれるのである。

○書き下し文
易の書たるや、広大ことごとく備(そな)わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材(さんざい)を兼(か)ねてこれを両(ふた)つにす。故に六なり。六とは它(た)にあらざるなり。三材の道なり。道に変動あり、故に爻(こう)という。
※它(た)~ほか

易とは何か その17~易作者の憂慮

○易作者の憂慮
易書の成立は、殷末期、周初期であろうか。易の作者は、時勢を憂いていたのであろうか。

○書き下し文
易の興るや、それ中古におけるか。易を作る者は、それ憂患あるか。

ブラ高野~小倉祇園太鼓

小倉祇園太鼓は、八坂神社(北九州市小倉北区)の例大祭で、江戸時代以来、約400年の歴史を持つ祭りである。京都の祇園祭、博多の博多祇園山笠と共に全国三大祇園ともいわれ、福岡県内では博多祇園山笠、戸畑祇園大山笠と共に福岡県の三大祇園とも位置づけらている。
小倉祇園太鼓は太鼓とすり鉦(ジャンガラ)による演奏が主役となる太鼓祇園である。
演奏のスタイルには山車に太鼓を設置し叩きながら練り歩く「廻り太鼓」と、台に設置した太鼓を叩く「据え太鼓」が存在する。
太鼓の音には天下泰平、国土安泰、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全を願う意味が込められ、昔から「祇園風に吹かれると夏患いせぬ」という。
なお、この祭に女人禁制はなく、女性が山車を引いても太鼓を叩いても問題ない。
小倉祇園太鼓は、岩下俊作の小説「乱れ打ちの一生」で紹介され、無法松のあざなを持つ人力車夫による太鼓の乱れ打ちで全国的に有名になった。

小倉祇園太鼓

 

 

易とは何か その16~易経の含蓄№3

ウ 火風鼎
人徳がないのに高位におり、知恵が乏しいのに大事を企て、力が足りないのに重任を引き受ける者には禍が降りかかる。火風鼎の四爻に、鼎足を折り、公の餗(そく)を覆(くがえ)す。
その形渥(かたちあく)たり。凶である、とは能力以上のことはするなという戒めである。
※公の餗(そく)~公の宴席におけるごちそう ※渥(あく)~重罪

○書き下し文(繋辞伝より作成)
子曰(いわ)く、徳薄くして位尊(たか)く、知小にして謀(はかりごと)大に、力小にして任重ければ、及ばざること鮮(すくな)し。易に曰(いわ)く、鼎(てい)足を折り、公の餗(そく)を覆(くつがえ)す、その形(かたち)渥(あく)たり、凶なりとは、その任に勝(た)えざるを言うなり。

徳川家康の本質 その2~狂気

姓名判断で徳川家康の人物像をみると、主運は申し分ない「智力冨栄」であるが、三才と五行の相関では、天格が18画、すなわち先祖の因縁から「甚(はなは)だしきは発狂変死す」という精神障害の資質を持っていることがわかる。
三河の英雄であった祖父松平清康は家臣から暗殺された。
父の松平弘忠も徳川家康が幼少時に亡くなったが、暗殺説をいまだに否定できない。
今川家や織田家の人質として、辛酸をなめるこの人の副運は、26画の「変怪数奇」である。

三方が原の戦いでは、魚鱗の陣で固めた、3倍近い優勢な武田軍に向かってしゃにむに突撃して、命からがら浜松城に逃げ帰った。
武田方の目的地は京都であったので、城に立てこもって防備を固め、やり過ごせばいいだけ話である。
なぜ、勝てるはずがないのに命懸けで突撃したのか、謎である。
桶狭間の奇襲をした織田信長の真似をしたわけではないと思うが、後世はいまだに納得できる答えを見つけていない。金ヶ崎の戦いに負けて敗走中に「腹切る」とわめきだしたり、関ヶ原の戦いでは金吾中納言の裏切りを待つ間しきりに爪を噛んだり、奇妙な行動が目につくのである。

そこで姓名判断の結果を参考にこの人は、先祖に由来する精神の病(やまい)を持っていたのではないか、と考えればつじつまが合うのである。理解に苦しむ行動も納得できる。
徳川家康を理解するキーワードは、狂気である。
日本の王者になったあとは平和を希求しながら、一生をかけてそれを隠しきったのであろう。

なお、徳の字は、旧字体の德であり、本稿では15画としている。

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