高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

佐久間象山の占断例

佐久間象山(さくま  ぞうざん)は、幕末の松代藩士、革命活動家、思想家である。
(1811年3月~1864年8月、享年53歳)
⑴ 状況
明治維新の4年前、寺田屋事件や生麦事件等社会不安が充満し、京都では暗殺事件が頻発していた1864年、佐久間象山は幕命により上洛したが、その直前に上洛の是非を自らが占って出た卦は、澤天夬の上爻であった。
これは易経が教えている危険信号を無視したため、凶運を避けることができなかった事例である。

澤天夬~あやうきことあり
上爻~さけぶことなし。ついに凶あり。

⑵ 上洛
易経があやうきことあり、と警告しているにもかかわらず、佐久間象山は、都路(みやこじ)と名付けた馬に乗って、意気揚々と上洛した。
中川の宮家(京都)の庭先で都路に乗って西洋馬術を演じ、手綱(たづな)裁きを褒(ほ)められた佐久間象山は感激して「都路を王庭とあらためてさらに修練を積みたいものです」と申し上げた。
こともあろうに、易経に書いている「王庭」を馬の名にする、というのである。

⑶ 結果
さけぶことなし、と易経が教えたように中川の宮家からの帰途、馬上で浪士に左右から斬りつけられ叫ぶ間もなく暗殺された。

⑷ 高島呑象先生のなげき
高島呑象先生は、次のように嘆息した、という。
「象山先生ほどの方にしても、このようなことがあるのか。先生の死が運命であるとしても、易占(えきせん)があらかじめ凶を示しているのにどうしてこれを避けることができなかったのだ。易をよく知りながら、これを守ることができなかったのだ。何としても惜しいことである」
※参考~易断に見る明治諸事件(片岡紀明著)

ブラ高野~蒙古軍船の碇石

博多港の中央波止場付近で発見され、筥崎宮に保存されている蒙古軍船の碇石は一の鳥居を過ぎて、右側すぐの大楠の向かい側にある。
ここに2個の碇石が置かれているが、向かって手前の碇石が福岡県の有形文化財である。
これらは、全長が2~3mの角柱状の石で、中央部が広く、両端がややせまくなっている。
表面に粗い加工痕があり、稜線を面取りしたもので、中央部にロープを結ぶための溝が掘り込まれ、碇石として利用した跡がはっきり読み取れる。

およそ750年前に九州の御家人が元寇を迎え撃った箱崎浜は、「夏草や兵どもが夢の跡」(松尾芭蕉)という俳句を思い出させるほど、今では静かな松林が続いている。

蒙古軍船の碇石

看板

組立図

九星気学とは何か?

1 概要
九星気学で扱う九つの星は、一白水星や二黒土星という名称はついているものの夜空に輝く星ではなく、方角ごとに仮想された地上の星である。
幾日旅を続けても、ひたすら大地が続くだけで東西の方角はおろか自分の位置さえわからなくなるという、ただ広大な中国大陸に住む人々は、満天の星が空を支配し方位を示すのを見て、地上を支配し方角を教えるバーチャルな星を希求し九つの星を生み出した。九星気学によって我々は以下四項目について説得力ある答えを受け取ることができる。

2 方位の吉凶
東、西、南、北、東北、東南、西北、西南及び中心部あわせて九つの方位に星の名称をつけた九星とは方位の目印であり、当初中国大陸では九星術という名称であった。
しかしながら、単なる道しるべであった九つの星は、やがて人の一生を支配する生まれ星という概念の発明によって、方位の善し悪しを判断するようになる。
方位には凶方位と吉方位があるが、方位学は暗剣殺をはじめとする凶方位を探索する手法である。
凶方位の一例を挙げると、暗剣殺は突然暗闇から斬りつけられるような不運、五黄殺は持病がじわじわと悪化していくような宿命的な不幸を意味している。

3 運勢変転の原則
中国大陸では九星術という方位学であった九星は、日本に渡来し運勢や性格、相性も判定するようになり、現在では九星気学と呼ばれている、日本生まれの占術である。
運勢の強弱を教える八卦の上を生まれ星が巡回しているので、人間の運勢は八卦に引きずられ刻々と変化していくのである。
最強の運勢である中宮に生まれ星が重なった場合は、幸運が続くものの、ちょっとしたミスが命取りになるので、この時に限っては事業の立ち上げ不可、また最も運勢が弱くなる坎の位置に生まれ星が廻った年は、何をしてもうまくいかないが、勉強・研究がはかどる時期である。

4 相性判定
五つの元素から成り立つ宇宙を図案化した五行に九星を配当することにより、人間関係の相生と相剋を探究し、判定することができるようになった。
例示すると、火である九紫火星と土である五黄土星は、火は土を生み出すので相生、水である一白水星と火である九紫火星は、水は火を消すので相剋の関係となるのである。
九星それぞれの相性を知っていれば、人間関係の善し悪しはもちろん性格も把握できるので、明るい知恵をもって生きていくことができる。

5 性格判定
九星と八卦の意義を融合、応用して、生まれ年と生まれ月によって、人物の性格や個性 、生き様を探り、明らかにできるが、この手法を傾斜法という。傾斜法を使うと、なぜ人間の見かけと本質をえぐり出すことができるのか、不可思議というほかない。

6 運命学の白眉
九星気学という運命学の新たな体系をつくり上げた創始者たちは、空に輝く星をみて、地上に想定した星もぐるぐる廻りながら方位や運勢、人間性、人間関係を決めていく、と思い至ったのである。
九星は、易や五行のように確固とした思想・原理があるわけではなく、実情は、民間土俗伝承の一つであるが、データ蓄積に基づく判断法であるので、占いではないものの、特に運勢の変転、相性判定、性格判定では8割程度的中することを考えれば的中率の高さから易占とともに隠れたえにしをこの世界へ引っ張り出す、運命学の白眉といって差し支えない。

ブラ高野~杉玉(すぎだま)

杉玉は、スギの穂先を集めてボール状につくった縁起物の造形物である。
酒林(さかばやし)ともいわれる。
日本酒の造り酒屋の軒先に杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせたのである。

杉玉は、お酒の神様である大神神社(奈良県桜井市三輪)の習俗である。
大神神社では、毎年11月14日に「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきた。
大神神社がある三輪山のスギは聖なるものとされているため、スギを使った杉玉ができたのある。

その習慣が江戸時代初頭から全国の酒蔵へ広まった。
本来は杉玉を酒蔵の軒先に吊るす習わしだったが、現在では酒蔵に限らず居酒屋でも飾っていることがある。

杉玉(福岡市早良区西新)

敗者の痛み

時はBC202年漢楚興亡の末期、垓下の戦いで四面楚歌、滅亡を覚悟した項羽(BC232年~202年)の心境は、次の通り後世に伝えられている。
項羽が最後の宴で詩を詠んでいる場面を史記から引用しよう。

史記:
「項王、即ち夜起(た)ちて、帳中に飲す。美人あり。名は虞(ぐ)、常に幸せられて従う。駿馬あり、名は騅(すい)、常にこれに騎す。是(ここ)において、項王、乃ち悲歌杭慨(ひかこうがい)し、みずから詩を為(つく)りて曰(いわ)く、
力は山を抜き 気は世を蓋ふ
時に利あらずして 騅(すい)逝かず
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。」

現代語訳:
「項王は、夜中であるが於き出して。帳(とばり)の中でささやかに最後の宴を張った。美人がいた。名を虞(ぐ)といい、項王はいたく寵愛して、いつも離さず連れていた。また、世に優れた名馬がいた。名を騅(すい)といい、項王の常に乗る馬であった。項王の胸の中を名状し難い激情が駆け抜けた。項王は心の高まりのままに、みずから詩を作り、むせぶような抑掦(よくよう)をつけて歌った。

力は山を抜き 気は世を蓋ふ (ちからはやまをぬき、きはよをおおう)
時に利あらずして 騅(すい)逝かず (ときにりあらずして すいゆかず)
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん (すいゆかざるをいかんせん)
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん (ぐやぐやなんじをいかんせん)
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。

幾回か繰り返してうたい、虞美人もこれに唱和した。
一座の者もみな泣き、顔をあげられるものは誰もいなかった。」

時に利あらずして、と詠っているように項羽は、敗北の原因は自分ではなく時勢にある、と思っていたのである。
これに史記の著者である司馬遷(BC145年~BC87年)は次のように激しく非難している。

史記:
太史公曰く、みずから攻伐に矜(ほこり)り、其の私智を奮いて、古(いにしえ)を師とせず、覇王の業と謂(おも)い、力征を以って、天下を経営せんと欲せしも、五年にして卒(つい)に其の国を滅ぼし、身は東城に死せり。尚お覚寤(かくご)せずして、みずから責めざしは、過てり。乃ち「天、我を滅ぼす。兵を用うるの罪にあらざるなり」を引く。
豈(あ)に謬(あやま)らずや。
※太史公は司馬遷自身のこと

現代語訳:
ある記録官は言う、自分の功を誇り、自分の知恵ばかりに頼って、過去の教訓によろうとはしなかった。己(おのれ)のなすところこそ覇王の事業と信じ込み、ただ武力によって天下を運営してゆこうとし、五年にしてついにその国を失ったのである。東城で首かき切って死んだときでさえ、なおそのことに気が付かず、みずからを責める気持ちがなかったが、それは間違っている。しかも「天がわたしを滅ぼすのだ。戦術のまずさのためではない。」と言い張るの及んでは、誤謬(ごびゅう)も甚(はなはだ)しいというべきではないか。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~項羽本紀 264~265頁抜粋

ブラ高野~頭山 満

西新緑地(福岡市早良区)には頭山 満(とうやま みつる、1855年5月生まれ)が植えたという楠木の大樹が元気に育っている。

頭山 満は、板垣退助の影響で自由民権運動に共鳴し国会開設運動に参加して、明治維新に乗り遅れた福岡藩士を中心にした共愛会という政治結社を創設した。
1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権運動から離れて国権伸張を主張し、欧米列強の侵略に対抗するため、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続けた。
孫文の革命運動を支援したり、韓国併合など国権の推進運動をすすめ、今から思えば夢物語に過ぎない大アジア主義を実践した人物である。
この人の思想、人生行路がとりとめがなくわかりにくいのは、京都から函館まで日本列島のほぼ半分を革命戦に巻き込んだ明治維新を経験したという、明治時代の特殊性に由来するのであろうか。

頭山 満が幼少時に植えた楠木

案内看板

中国大陸黄土地帯の様相 その3~地形

細く長い日本列島では、東西南北に比較的に人間が動きやすいが、黄土による断崖や段丘、また大河、大山脈にさえぎられた中国大陸では、過酷な自然により移動自体が困難であった。黄河流域に広がる黄土に覆われた大地の有様を司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」から紹介しよう。

項羽と劉邦:
「現在の行政区でいえば山西省になる。ほぼ全体が黄土高原をなし、いくつかの山脈が南北に並行し、山も谷も黄土層をもってあつくおおわれており、樹木もすくない。そのなかを北から南へ高原を切り裂くように汾河(ふんが)が流れている。汾河の両側は黒っぽい断崖、灰色の段丘が多く、ときに水流が大きく地をひろげてひとびとに耕地をつくらせており、韓信とその軍が通って行った道路というのは、その汾河河谷(かこく)ぞいに延びている。
地名でいえば、曲沃(きょくよく)、平陽(へいよう)(現在、臨汾、介休をへて楡次(ゆじ、太原市の南方)を通り、この楡次のあたりから道がはじめて東する。黄土高原は次第に降りになり、やがて河北平野がひらけ、現在の地名でいえば、石家荘市あたりに出る。ただ、河北平野へ出る行路は最後の難所というべきところで、道のゆくてには、南からつづいている太行(たいこう)山脈の北端がさえぎっている。そのあたりの地形はじつに奇怪であった。天が包丁をもって山地を縦横にきざんだように細長い谷ができている。それが自然の切通しや道路になっているのだが、そのほとんどは人馬が二列になって通ることができず、一列でもって長蛇の列をつくらなければならない。このあたりでそういう自然道のことを陘(けい)と呼んでいる。

そのなかでも、井陘(せいけい)という自然道が有名で、韓信軍が河北平野に出るにはこの井陘の道を通らなければならない。平野に出る手前に、古来、関門があった。土門関といい、井陘口(せいけいこう)とも呼ばれた。『井陘口さえ扼(やく)すればどういう大敵でもふせげうる〛と、古い時代からいわれていた」

出典:司馬遼太郎全集45「項羽と劉邦」
目次~背水の陣 454頁~455頁抜粋

ブラ高野~花庭園(はなていえん)

福岡市地下鉄箱崎宮前駅の真上、4番出口から歩いて10秒のところに花庭園の入口がある。
花庭園は、花を中心とした、筥崎宮の庭園であり今は特にユリの花が見ごろである

花庭園では、また花の王様と呼ばれるにふさわしい豪華なぼたんが100品種、2,000株、またしゃくやくは、30品種500株、日本にはない色の鮮やかなアメリカしゃくやくも咲き競っている。

開園期間:1月1日~12月10日
開園時間:9:30~17:00(冬期は16:30まで)
定休日 :水曜日

花庭園入口

花庭園のユリ

中国大陸黄土地帯の様相 その2~虐殺の王朝

下記は、秦の捕虜二十万人を虐殺したときの項羽と部下の黥布(げいふ)らの様子を史記の項羽本紀(こううほんぎ)から抜粋したものである。
司馬遷は、「新安城の南に阬(あな)にす」と大虐殺事件をさらりと書いている。原文では「阬(あな)にす」となっているが、殺し方は穴埋めにしたのではなく、武器を持たない捕虜集団を夜襲して深い谷底へ突き落した、とみれば二十万人が百万人でも話は簡単である。当時でもこの殺害方法は例がなく独創的であったためか、該当する概念、用語がなかったので、まとめて「阬(あな)にす」と書いたのであろう。
たしかに「阬(こう)」とは穴埋めにする、という意味であるが、黄土谷を知らずに文字通り穴を掘って埋めた、と受け取ると人力だけで二十万人分の巨大な穴を掘れないので、ネット情報のように虐殺数が七~八万人という誤った見方になる。
凸凹した谷間が続いている、という黄土地帯の地形を利用した項羽の例を見ない大量殺人法に比べると、ナチスドイツは、少しづつ数百人単位でユダヤ人をガス室で殺害し、遺体を焼却炉で焼いて処理した。困難なのは、殺人より遺体処理なのである。
なお、黄土地帯を貫流する黄河の全長は5,500km、日本列島の全長は沖縄を含めても3,300kmである。

史記:
「章将軍等、我が属(ぞく)を偽りて諸侯に下れり。今善く関に入り秦を破らば、大いに善し。即(も)し能(あた)わずんば、諸侯、吾が属(ぞく)を虜(とりこ)にして東し、秦、必ず尽(ことごと)く吾が父母妻子を誅(ちゅう)せん」と。
諸将、密(ひそ)かに其の計を聞き、以って項羽に告ぐ。項羽、乃(すなわ)ち黥布(げいふ)・蒲(ほ)将軍を召して、計(はか)りて曰(いわ)く「秦の吏卒尚(な)お衆(おお)く、其の心、復せず。関中(かんちゅう)に至りて聴(き)かずんば、事、必ず危(あや)うからん。これを撃殺(げきさつ)して、独(ひと)り章邯(しょうかん)・長吏(ちょうし)の欣(きん)・都尉(とい)の翳(えい)と与(とも)に秦に入るに如かず」と。
是(ここ)に於いて、楚の軍、夜撃(う)ちて、秦の卒二十余万人を新安城の南に阬(あな)にす」

現代語訳:
「章将軍たちは、われらをだまして諸侯の軍に降伏してしまった。もし函谷関(かんこくかん)から攻め入って、秦を討ち破ればおおいに結構なことだ。もし秦に勝てなかったら、諸侯はわれらを捕虜として東に連れ去るだろう。そうなれば、秦は必ずわれらの父母妻子を皆殺しにするに違いない」
項羽の諸将は、秦の士卒の密談を密かに盗み聞き、項羽に報告した。項羽は、黥布(げいふ)と蒲(ほ)将軍を呼んで、対策を相談した。
「秦の士卒は、降伏したとは言え、人数は多く、心から帰服しているわけでもない。関中に攻め入ってから反抗されたのでは、必ずや重大な事態に陥ろう。むしろ今のうちに撃ち殺して、将軍の章邯(しょうかん)、副将の司馬欣(しばきん)、都尉の董翳(とうえい)だけを連れて、秦に入った方がいい」
かくて楚軍は夜襲をかけて、降伏した秦の兵卒二十余万人を新安城の南で穴埋めにして殺した。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~項羽本紀 207頁~208頁抜粋

次に、捕虜にした秦兵の虐殺方法を詳細に描いている、司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」を引用しよう。

項羽と劉邦:
「われわれは、どうなるか」という狐疑が、秦兵を動揺させ続けている。かれらは楚軍とともに、その郷国である秦(関中)に攻め入るのだが、この点についても気がむかなかった。といって秦の兵には秦帝国への忠誠心などはさほどにはない。むしろ楚人の関中入りがおそらく成功すまいという見方の方が強く、楚人が関中の秦兵に敗れた場合、かれら楚人はふたたびこの帰順秦兵を捕虜として中原へつれ去り、関中に居る帰順秦兵の家族は、秦帝国の手で殺されるにちがいないと猜疑していた。
「いっそ、反乱をおこすか」

~(中略)~

まずいことがおこった。ある夜、秦兵の宿営地を巡回していた楚人の将校がこの種のささやきを聴いた、というのである。この聴き込みは、項羽まで上申された。

~(中略)~

范増(はんぞう)は、黥布(げいふ)を本営によび、密議した。
以上の事態は、この大軍が新安に到着する直前までのことである。
新安での秦軍二十余万の宿割りは、黥布の配下の将校がきめた。
城外で、しかも地隙(ちげき)の多い地域が、野営地として指定された。垂直断崖でかこまれた四角い黄土谷が無数にあり、地の底をのぞかせていた。
深夜、黥布軍が秘密の運動をした。かれらは足音をしのばせて、黄土谷のない平原にあらわれ、捕虜たちの宿営地の三方をかこみ、一方だけをあけたのである。
次いで、一時に喚声をあげ、包囲をちぢめた。この深夜の敵襲で、二十余万の秦兵たちがパニックにおち入った。
かれらは一方にむかって駆け出し、たがいに踏み重なりつつ逃げ、やがて闇の中の断崖のむこうの空を踏み、そこからは人雪崩(ひとなだれ)をつくって谷の底に流れ落ちた。

~(中略)~

ジェノサイド
大虐殺は、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。
さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮(さつりく)側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者(ひさつしゃ)側に恐慌をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狡猾(こうかつ)な方法は、世界史上、この事件以外に例がない」

出典:司馬遼太郎全集45「項羽と劉邦」(司馬遼太郎著)
目次~秦の章邯将軍 237頁~238頁抜粋

※参考
死者二十万人という人数は、漢の高祖劉邦が項羽を論難した10項目のうち六番目にある数字なので、当時は誰でも知っていたことがわかる。

史記:
「詐(いつわ)りて秦の子弟を新安に阬(あな)にすること二十万、其(そ)の将を王とす。罪六なり」

現代語訳:
「新安では秦の若者をだましうちにして、二十万人も穴埋めにし、彼らの指揮官を王に取り立てた。これが罪の第六である」

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~高祖本紀 320頁抜粋

 

ブラ高野~天神ビッグバン

福岡市では中央区天神地区で、アジアの拠点都市としての役割・機能を高め、新たな空間と雇用を創出するプロジェクト”天神ビッグバン”を推進している。

航空法の高さ制限特例承認や福岡市独自の容積率緩和制度などを組み合わせ、ソフト・ハード両面にわたる施策を一体的に推進することで、民間活力を最大限に引き出そうという大事業である。
耐震性の高いビルへの建替え促進、快適でぬくもりのある公共空間の創出など、安全安心で、未来に誇れる、魅力的なまちづくりに取り組んでいる。

事業成果の一つである天神ビジネスセンター

楽しい工事柵

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