高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

中国大陸黄土地帯の様相 その5~虐殺の王朝

二十万人という被害者数の信憑性であるが、漢の高祖劉邦が項羽を論難した10項目のうち6番目にある数字であり、当時は誰でも知っていたことがわかる。
「史記」の原文は次の通り
「詐(いつわ)りて秦の子弟を新安に阬(あな)にすること二十万、其(そ)の将を王とす。罪六なり」

高野白山訳
「新安では秦の若者をだましうちにして、二十万人も阬(あな)にして、将だけをを王に取り立てた。これが罪の第六である」

垓下の戦いで滅亡を覚悟した項羽の心境は次の通りである。

垓下の歌
「力は山を抜き 気は世を蓋ふ 時に利あらずして 騅(すい)逝かず 騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん」

項羽は、敗北の原因は、自分ではなく、時勢にあると、思っていたのである。
これに司馬遷は「史記」で以下のように激しく批判している。

史記:
「みずから攻伐に矜(ほこり)り、其の私智を奮いて、古(いにしえ)を師とせず、覇王の業と謂(おも)い、力征を以って、天下を経営せんと欲せしも、五年にして卒(つい)に其の国を滅ぼし、身は東城に死せり。尚お覚寤(かくご)せずして、みずから責めざしは、過てり。乃ち〚天、我を滅ぼす。兵を用うるの罪にあらざるなり〛を引く。豈(あ)に謬(あやま)らずや。」

高野白山訳
「自分の功業を誇り、浅知恵ばかりに頼って、過去に学ぶこともせず、ただ覇道のみを信じ込み、武力で天下を経営しようとしたが、五年間でついにその国を失ったのである。東城で死んだときでさえ、そのことに気が付かず、みずからを責める気持ちがなかったが、それは間違っている。しかも『天がわたしを滅ぼすのだ。戦術のまずさではない』と言い張るに及んでは、むちゃくちゃではないか」

ブラ高野~コメダ珈琲

コメダ珈琲店は名古屋市に本拠を置く喫茶店チェーンである。
1968年に創業者の加藤太郎がコメダ珈琲店を開店した。
コメダの名称は創業者の家業が米屋で、「コメ屋の太郎」にちなむものである。
この喫茶店は、現在900店を超える店舗を持つ最大手の一つである。

コーヒーもパンやケーキも食べきれないほど量が多く、しかも安価、利用時間は一日でも半日でも無制限、ゆったりとした広いスペース、まさに都心のオアシスである。

伊勢神宮のお祓いを受けた紅茶の瑞(みずき)も注文できる。

店舗入口

コメダ珈琲店のシンボルマーク

中国大陸黄土地帯の様相 その4~虐殺の王朝

次に、捕虜にした秦兵の虐殺方法を詳細に描いている、司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」を引用しよう。

項羽と劉邦:
「われわれは、どうなるか」という狐疑が、秦兵を動揺させ続けている。かれらは楚軍とともに、その郷国である秦(関中)に攻め入るのだが、この点についても気がむかなかった。といって秦の兵には秦帝国への忠誠心などはさほどにはない。むしろ楚人の関中入りがおそらく成功すまいという見方の方が強く、楚人が関中の秦兵に敗れた場合、かれら楚人はふたたびこの帰順秦兵を捕虜として中原へつれ去り、関中に居る帰順秦兵の家族は、秦帝国の手で殺されるにちがいないと猜疑していた。
「いっそ、反乱をおこすか」

~(中略)~

まずいことがおこった。ある夜、秦兵の宿営地を巡回していた楚人の将校がこの種のささやきを聴いた、というのである。この聴き込みは、項羽まで上申された。

~(中略)~

范増(はんぞう)は、黥布(げいふ)を本営によび、密議した。
以上の事態は、この大軍が新安に到着する直前までのことである。
新安での秦軍二十余万の宿割りは、黥布の配下の将校がきめた。
城外で、しかも地隙(ちげき)の多い地域が、野営地として指定された。垂直断崖でかこまれた四角い黄土谷が無数にあり、地の底をのぞかせていた。
深夜、黥布軍が秘密の運動をした。かれらは足音をしのばせて、黄土谷のない平原にあらわれ、捕虜たちの宿営地の三方をかこみ、一方だけをあけたのである。
次いで、一時に喚声をあげ、包囲をちぢめた。この深夜の敵襲で、二十余万の秦兵たちがパニックにおち入った。かれらは一方にむかって駆け出し、たがいに踏み重なりつつ逃げ、やがて闇の中の断崖のむこうの空を踏み、そこからは人雪崩(ひとなだれ)をつくって谷の底に流れ落ちた。

~(中略)~

ジェノサイド
大虐殺は、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。
さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮(さつりく)側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者(ひさつしゃ)側に恐慌をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狡猾(こうかつ)な方法は、世界史上、この事件以外に例がない」

ブラ高野~屋上庭園

JR博多駅屋上には、つばめの杜ひろば、という名称の庭園がある。
ここは展望テラスを備えており、福岡市一円また博多湾を展望できる。
鉄道神社やイベントスペース、お菓子販売所も設置され、現在はドリームつばめ号が庭園内を走っている。

つばめの杜ひろば

ドリームつばめ号

中国大陸黄土地帯の様相 その3~虐殺の王朝

下記は、秦の捕虜二十万人を虐殺したときの項羽と部下の黥布(げいふ)らの様子を史記の項羽本紀(こううほんぎ)から抜粋したものである。
司馬遷は、「新安城の南に阬(あな)にす」と大虐殺事件をさらりと書いている。
原文では「阬(あな)にす」となっているが、殺し方は穴埋めにしたのではなく、武器を持たない捕虜集団を夜襲して深い谷底へ突き落した、とみれば二十万人が百万人でも話は簡単である。当時でもこの殺害方法は例がなく独創的であったためか、該当する概念、単語がなかったので、司馬遷はまとめて「阬(あな)にす」と書いたのであろう。
「阬(こう)」とは穴埋めにする、という意味であるが、黄土谷を知らずに文字通り穴を掘って埋めた、と受け取ると人力だけで二十万人分の巨大な穴を掘れないので、ネット情報のように虐殺人数が七~八万人という誤った見方になる。
凸凹した谷間が続いている、という黄土地帯の地形を利用した項羽の大量殺人法に比べると、ナチスドイツは、数百人単位でユダヤ人をガス室で殺害したものの、遺体を焼却炉で焼いて処理した。

史記:
「章将軍等、我が属を偽りて諸侯に下れり。今善く関に入り秦を破らば、大いに善し。即(も)し能(あた)わずんば、諸侯、吾が属を虜(とりこ)にして東し、秦、必ず尽(ことごと)く吾が父母妻子を誅(ちゅう)せん」と。
諸将、密(ひそ)かに其の計を聞き、以って項羽に告ぐ。項羽、乃(すなわ)ち黥布(げいふ)・蒲(ほ)将軍を召して、計(はか)りて曰(いわ)く「秦の吏卒尚(な) お衆(おお)く、其の心、復せず。関中(かんちゅう)に至りて聴(き)かずんば、事、必ず危(あや)うからん。これを撃殺(げきさつ)して、独(ひと)り章邯(しょうかん)・長吏(ちょうし)の欣(きん)・都尉(とい)の翳(えい)と与(とも)に秦に入るに如かず」と。是(ここ)に於いて、楚の軍、夜撃(う)ちて、秦の卒二十余万人を新安城の南に阬(あな)にす」

高野白山訳
「章将軍らは、私たちをだまして諸侯の軍に降伏してしまった。もし函谷関(かんこくかん)から攻め入って、秦を討ち破ればおおいによろしいが、もし秦に勝てなかったら、諸侯はわれらを捕虜として東に連れ去るだろう。そうなれば、秦は必ずわれらの父母妻子を皆殺しにするに違いない」
項羽の諸将は、秦の士卒の密談を密かに盗み聞き、項羽に報告した。項羽は、黥布(げいふ)と蒲(ほ)将軍を呼んで、相談して言った。
「秦の士卒は、降伏したとは言え、人数は多く、心から帰服しているわけでもない。関中に攻め入ってから反抗されたのでは、必ずや危険な事態になるであろう。むしろ今のうちに皆殺しにして、将軍の章邯(しょうかん)、副将の司馬欣(しばきん)、都尉の董翳(とうえい)だけを助けて、秦に入った方がましだ」
こうして楚軍は夜襲をかけて、降伏した秦の兵卒二十余万人を新安城の南で阬(あな)にして殺した。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著) 目次~高祖本紀 320頁抜粋

 

ブラ高野~福ふく整骨院

福ふく整骨院は、地下鉄西新駅から歩いて5分、福岡市早良区西新の商店街にある。
ここでは腕の良い先生が骨盤矯正や腰痛をはじめとして肩こり、頭痛、妊活やマタニティ整体も含めて痛み全般を改善してくれる、おすすめの整骨院である。
広めの託児スペースもあり、慣れたスタッフが常駐しているので安心して子供を預けることができる。

施術が終わった後は、歩調も軽く身体がはっきり伸びているのがわかり、すっきりさわやかな気持ちになる。

私は一年近く治療を受けたが、腰痛や膝の痛みが軽くなり、体重も3kg減、血圧は正常値を示し体調良好である。

千客万来の整骨院

ママさんにも好評

中国大陸黄土地帯の様相 その2~地形

細く長い日本列島では、東西南北に比較的に人間が動きやすいが、黄土による断崖や段丘、また大河、大山脈にさえぎられた中国大陸では、過酷な自然により移動自体が困難であった。黄河流域に広がる黄土に覆われた大地の有様を司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」から紹介しよう。

項羽と劉邦:
「現在の行政区でいえば山西省になる。ほぼ全体が黄土高原をなし、いくつかの山脈が南北に並行し、山も谷も黄土層をもってあつくおおわれており、樹木もすくない。そのなかを北から南へ高原を切り裂くように汾河(ふんが)が流れている。汾河の両側は黒っぽい断崖、灰色の段丘が多く、ときに水流が大きく地をひろげてひとびとに耕地をつくらせており、韓信とその軍が通って行った道路というのは、その汾河河谷(かこく)ぞいに延びている。地名でいえば、曲沃(きょくよく)、平陽(へいよう)(現在、臨汾、介休をへて楡次(ゆじ、太原市の南方)を通り、この楡次のあたりから道がはじめて東する。黄土高原は次第に降りになり、やがて河北平野がひらけ、現在の地名でいえば、石家荘市あたりに出る。
ただ、河北平野へ出る行路は最後の難所というべきところで、道のゆくてには、南からつづいている太行(たいこう)山脈の北端がさえぎっている。
そのあたりの地形はじつに奇怪であった。
天が包丁をもって山地を縦横にきざんだように細長い谷ができている。それが自然の切通しや道路になっているのだが、そのほとんどは人馬が二列になって通ることができず、一列でもって長蛇の列をつくらなければならない。このあたりでそういう自然道のことを陘(けい)と呼んでいる。
そのなかでも、井陘(せいけい)という自然道が有名で、韓信軍が河北平野に出るにはこの井陘の道を通らなければならない。平野に出る手前に、古来、関門があった。土門関といい、井陘口(せいけいこう)とも呼ばれた。
「井陘口さえ扼(やく)すればどういう大敵でもふせげうる」と、古い時代からいわれていた」

ブラ高野~金色のモニュメント

福岡ダイヤモンドビル(福岡市中央区天神)前の金色のモニュメントは、無名でありながら、さりげなく、しかし圧倒的な存在感を持ったインパクトがあり、街角のアクセントにふさわしい空間を演出している、優れた造形物である。
福岡の新しい待ち合わせの場所となりそうな予感もある。
この作品は、設計は、株式会社オーケストラ、第8回福岡市都市景観賞を受賞した。

金色のモニュメント

中国大陸黄土地帯の様相 その1~豊穣の大地

易も九星も中国大陸黄河流域の黄土地帯が故郷である。
黄土は自然の賜物であり、諸刃(もろは)の剣(つるぎ)でもある。
黄色い土のチリが降り積もった大地は肥沃で豊かな恵みをもたらす反面、黄河が氾濫(はんらん)すると、生き物が絶滅する過酷な環境が黄土地帯である。

司馬遼太郎先生が項羽(BC232年~BC202年)の口を借りて、「項羽と劉邦」という小説でその有様を説明しているので以下引用しよう。

項羽と劉邦:
〚(なんと、ゆたかなものだ)と、項羽は、自分の故郷の水っぽくて黒い土の色とはまったくちがった黄土地帯の田畑を見つつ、この大地に豊穣を感じた。漢民族の文明は黄土地帯において盛衰をくりかえしてきただけに、楚人である項羽は、土の黄色っぽさをみるとどことなくこれこそ文明の地帯だとおもってしまう。
黄土は、北方の半乾燥アジアのちりが風に運ばれて堆積(たいせき)したもので、粒子はこまかく、掌(て)にすくえば軽くてさらさらしており、層は深さ平均二、三0メートルもある。ときに七0メートルにも達する。
黄土は植物の成長に必要な鉱物質を多量にふくんでいるのと水保(も)ちがいいために農業にもっともよく適して、この大陸に巨大な農業文明をそだてたが、一面、水触(すいしょく)されやすい。水触されると、ほぼ垂直の谷壁をつくって陥没し、平地に巨大な穴(あるいは谷)をつくってしまう。
新安には、水触によってできた黄土谷が多い。ときに転落すれば命をおとすほどに深い谷があった〛

ブラ高野~唐津街道(からつかいどう)

唐津街道は九州北部の玄界灘沿岸に江戸時代に整備された街道である。
小倉から、博多を経由し唐津、平戸に至る。
かつて福岡藩や唐津藩の参勤交代など、にぎやかに多くの旅人が往来した。

案内板には次の通り記されている。
「唐津街道
江戸時代、福岡藩や唐津藩の参勤交代に使われていた道で、北九州の小倉から福岡城下を通過し。荒戸、唐人町商店街、鳥飼八幡宮の南側を通って西新商店街へと進み、唐津城下に至る道筋です。とりわけ、当仁校区内では黒門があった黒門飴屋前から唐人町商店街入口辺りの白壁と瓦葺きの家屋、商店街の中にある福岡藩御用達であった和菓子店などは往時の面影を残しています」

唐津街道の一部

案内板

 

 

 

 

 

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