高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

繋辞下伝~三才

易経では天道と人道と地道を三才(さんさい)といいますが、それぞれに二つの爻(こう)がついているので、天道と人道と地道としてあわせて六つの爻があります。
爻は、変動という意味があり、具体的な指針を教えます。
三才は、三材(さんざい)とも言います。

「易という書物は、内容が広大であらゆる道理を備えている。天道と人道と地道がある。
天と人と地の三才がそれぞれ二つの爻に該当し、その合計が六つの爻である。六という数は他でもない、三才の道なのである。そして三才には、変動があり、その変動に効(なら)うという意味で爻と呼ばれるのである」

○書き下し文
「易の書たるや、広大ことごとく備わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材を兼ねてこれを両(ふた)つにす。故に六なり。六とは它(た)にあらざるなり。三材の道なり。道に変動あり、故に爻という」
※它(た)~ほか、よそごと

 

ブラ高野~矢切の渡し

江戸時代初期に運行を開始したといわれる八切の渡しは、江戸川をはさんで東京都葛飾区柴又と千葉県松戸市矢切を結んでおり、現在も渡し舟が運行されています。
都内に残る唯一の渡し舟であり、小説「野菊の墓」にも登場しています。
なによりヒット曲「矢切の渡し」を生んだ渡し場として有名です。

繋辞下伝~易作者の憂慮

易経の著者は、3000年前の古代中国をどう認識していたか、繋辞下伝(けいじかでん)にヒントらしきものが書いています。

「易書の成立は、殷末期、周初期であろうか。易の作者は、時勢を憂いていたのであろうか」

○書き下し文
「易の興るや、それ中古におけるか。易を作る者は、それ憂患あるか」

ブラ高野~四国八十八ヶ所22番札所

四国八十八ヶ所22番札所の平等寺は、天正年間に土佐の大名長宗我部氏による兵火で焼失し、江戸時代中期に再興されて現在に至っています。

坂の左下にどんな日照りにも枯れることがないという湧き水が湧き出ています。
湧き水は、無色透明、真偽はわかりませんが、万病にきく霊水として全国に知られています。

大師堂に保管している箱車は、足の不自由な人が完治した記念として奉納されたものです。

繋辞下伝~治に居て乱を忘れず

繋辞下伝(けいじかでん)のアドバイスは、普遍性豊かな、深い意味を持っています。
例えば、治に居て乱を忘れず、と教えています。
事態を甘く見てはならない、危機管理意識を忘れるな、という意味でしょうか。

「危いと思って反省する人間は、地位が安泰であり、亡びを恐れて行いを振り返る者は、存立できる者である。乱れを心配する者は、治世を保つ者である。したがって、君子は、安全と思っても危機を忘れず、国が順調に存立している場合でもその滅亡を忘れず、治に居ても乱を忘れないのだ。このようにしてその身はやすらかとなり、国家の安泰を保つのである」

○書き下し文
「子曰く、危うき者は、その位に安んずる者なり。亡びんとする者は、その存を保つ者なり。乱るとする者は、その治を有(たも)つ者なり。この故に君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり」

ブラ高野~室見川

室見川は、延長約15km、福岡市西部を貫流し博多湾に注ぐ清流ですが、上流には曲渕ダムがあり、さらにその上は八丁川と呼ばれて、美しい野河内(のごうち)渓谷を形成しています。

護岸工事以前は、中流域で1.5m程度の丸太のような野鯉が姿を見せたり、台風の後は砂洲の水たまりに取り残されたウナギが釣れていました。
河口付近には干潟があり、今でも毎年2月から4月はじめにかけて名物の白魚(しろうお)が博多湾からのぼってきます。

仮設茶屋では白魚のテンプラやかき揚げ、踊り食いを食べることができます。
旧国鉄の筑肥線が通っていたころは、夕方にポッポ―という蒸気機関車の汽笛が聞こえ、何とも言えない風情がありました。

博多湾方面

野河内渓谷方面

繋辞下伝(けいじかでん)~去(きょ)と来(らい)

去ることは消滅することではなく力を蓄えることであり、来るとは力を発揮することであると考えている繋辞下伝は、人生の応援歌でもあります。

「太陽が沈めば月が昇る。月が隠れれば太陽が昇る。日月が交代で推移することにより、自然の明るさが生じるのである。寒さが過ぎれば暑くなる、暑さが去れば寒くなる。暑さと寒さが互いに推移して1年が形成される。去るとは消滅ではなく、屈すること、すなわち身を縮めて力を蓄えることである。来るとは、伸びること、すなわち身を伸ばして力を発揮することである。屈と伸の交替・循環により、大きな効果が生じるのである」

○書き下し文
「日往けばすなわち月来り、月往けばすなわち日来り、日月相推して明生ず。寒往けばすなわち暑来り、暑往けばすなわち寒来り、寒暑相推して歳成る。往くとは屈するなり。来るとは信(の)ぶるなり。屈信相感じて利生ず」

ブラ高野~鴻臚館(こうろかん)

鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した施設で、9世紀に博多・大阪・京都の3ヶ所に置かれました。

2004年に国指定史跡となった博多の鴻臚館は、当初、筑紫館(つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期に唐の「鴻臚寺」にならって「鴻臚館」と名を改めました。
鴻臚寺の「寺」は役所のことで、鴻臚とは、賓客の来訪を大声で伝達するという意味だそうです。
当時、延長15~16km、側溝付き幅10m~20m程度の立派な直線道路が鴻臚館から太宰府まで通っていたそうです。

鴻臚館跡展示館には、建物跡や復元模型、大量に出土した焼物などの遺物が展示されています。
なかにはガラス製のコップやイスラム産の焼物といった西アジアの物も含まれており、この地は昔から海外交流が盛んであったことがわかります。

繋辞下伝~八卦の由来


八卦は誰がつくったのか、繋辞下伝では、次のように解き明かしています。
「むかし天下に王として君臨していた包犠氏は、上を仰いでは天体の現象を観測し、下を見ては大地の形状を観察し、鳥獣の模様や土地の有様を見て、また近い所では自分の身体を参考に、遠い所では、物のかたちを見て初めて八卦をつくったが、八卦により、天地神明の徳を反映させ、万物の情報を分類したのである」
八卦は、万物の情報を分類し、整理するため創られたのかと理解すると、シンクロ二シティ(偶然の一致)に思い当たるフシがあります。

○書き下し文
「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いですなわち象を天に観、俯してはすなわち法を地に観、鳥獸の文と地の宜とを観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳を通じ、もって万物の情を類す」

ブラ高野~母里太兵衛(もりたへい)銅像

母里太兵衛(もりたへい)は、福岡藩黒田家の武将です。
福智山系につらなる、直方市にあった鷹取城城主、知行高は18,000石、槍術の使い手、黒田二十四騎の中でも特に重用された八虎の一人です。

筑前今様黒田節に謡われ、現在は福岡市博物館に所蔵されている名槍の日本号を福島正則から呑み獲ったエピソードで知られています。

「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」と有名な歌詞が銅像(博多駅博多口)の台座に刻まれています。

母里太兵衛銅像(博多駅博多口)

 

 

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