高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

立春への疑問 その3

⑴ 二十四節気(にじゅうしせっき)の導入
閏月の設置により季節のズレを修正するものの、19年かけてズレを予測しては閏月を増やして調整するだけなので、これは誤差が完全に無くなるということではない。 そこで、毎年太陽の動きを読み取った季節情報をカレンダーに書き込んで注意を喚起すればいいわけで、これら季節や気候をあらわす、情感にあふれた詞(ことば)を二十四節気(にじゅうしせっき)という。

毎日太陽の動きを観測して、地球上空の太陽が通る軌道である黄道(こうどう)を記録しておけば、太陽の位置によって暑くなったり寒くなったりする時期がわかるので、季節の到来を予測できるようになるのである。
黄道(こうどう)は円を描いているので、これを360度として24等分し、それぞれに春の始まりを意味する立春や昼と夜の時間が等しい春分と秋分、田植えの時期を知らせる芒種(ぼうしゅ)という名称をつけ、太陰暦に当てはめて季節を知らせれば飛躍的に使いやすくなるのが道理である。それでも立夏が太陽暦の5月5日頃、立秋が8月7日頃で季節感のズレを生じる場合がある。
そこで、もう一工夫して新たにつくった暦日を雑節という。

二十四節気(にじゅうしせっき)のうち、主な暦注は次の通りである。
立春(りっしゅん) 暦の上では春  2月4日頃
啓蟄(けいちつ) 冬ごもりの虫たち目覚める  3月5日頃
春分(しゅんぶん) 昼夜等しき長さ  3月20日頃
立夏(りっか) 薫風そよぎ、夏はじまる  5月5日頃
夏至(げし) 1年で一番昼が長い  6月21日頃
大暑(たいしょ) 1年で最も暑い頃  7月23日頃
立秋(りっしゅう) 秋の気配立つ  8月7日頃
白露(はくろ) 野草に露がつく  9月7日頃
秋分(しゅうぶん) 昼夜等しき長さ  9月23日頃
立冬(りっとう) 冬の気配立つ  11月7日頃
大雪(だいせつ) 真っ白な雪、空も地も覆う  12月7日頃
冬至(とうじ) 最も日が短い、冬のさなか  12月22日頃
大寒(だいかん) 1年で一番寒い  1月20日頃

⑵ 雑節(ざっせつ)による補完
黄河流域で生まれた、直輸入の二十四節気を補助する意味で、日本列島の風土、生活習慣を表す特徴を暦に記入すると、格段に使い勝手が良くなり、梅雨入りを知らせる入梅や嵐の到来を告げる二百十日などがある。これらの名称を雑節といい、日本独自の暦日である。

雑節(ざっせつ)一覧表
節分(せつぶん)立春の前日、季節を分ける日  2月3日頃
彼岸(ひがん)先祖へ感謝する日。春分の日、秋分の日を中日としてそれぞれ3日間
社日(しゃにち)産土神へ感謝する日  3月22日頃 9月18日頃
八十八夜(はちじゅうはちや)立春から数えて88日目、遅霜に注意  5月2日頃
入梅(にゅうばい)梅雨入り  6月11日頃
半夏生(はんげしょう) 梅雨明け、半夏という毒草が生える時期  7月2日頃
土用(どよう) 立春、立夏、立秋、立冬の前日までそれぞれ18日間
二百十日(にひゃくとうか)立春から数えて210日目、台風への備え 9月1日頃
二百二十日(にひゃくはつか)立春から数えて220日目、台風への備え 9月11日頃

ブラ高野~勝鷹水神(かつたかすいじん)

勝鷹水神は、勝鷹商店街(福岡市早良区西新)の入口にある、敷地一坪程度の神社である。
ここはもともと人々を潤してきた古井戸の跡であるが、ホークスの必勝祈願を込めて勝鷹商店街によって建立された。
ホークスの選手たちのサインボールや絵馬、写真が奉納されている。

勝鷹水神

立春への疑問 その2

⑴ 太陰太陽暦
太陰暦の1箇月を1朔望月と呼び、1朔望月は約29.5日なので、12朔望月(1年間)は、約354日となる。
そこで太陰暦をつくる場合は、30日ある月(大の月)を6個、29日しかない月(小の月)を6個設けることになる。
そうすると、
30日×6個=180日
29日×6個=174日
180日と174日の合計で、ちょうど354日である。
ところが、月の満ち欠けを基にした太陰暦は、比較的容易に作成でき、月の形さえ見れば日にちの見当がつくという便利な半面、太陽の動きを反映していないので、種まきや収穫の時期がわからず、季節感や生活実感とも違って使い勝手が悪いので、これを補正した暦を太陰太陽暦という。
太陰太陽暦は、太陰暦の一種である。
補正の方法は、三つあって、一つは閏月(うるうづき)の設置、二つ目は二十四節気(にじゅうしせっき)の導入、三つ目は雑節による補完である。

⑵ 閏月(うるうづき)の設置
上述のとおり、太陰暦の1年分は354日(29.5日×12月)なので、地球が太陽の周りを一周する365日に年間で11日足りず、3年で33日分のズレが生じることになる。観測の結果、太陽暦で19年たつと、月と太陽の周期が一致することが判明している。
では、太陽暦の19年は、太陰暦で換算すると、何年になるのだろうか。
計算の結果、太陰暦に換算した場合、19年で7月足りないのである。

太陽暦では4年に1回閏年を置くが、太陰太陽暦では、19年間のうち7月分の閏月を加えて太陽の動きに暦を合わせる、という段取りになるのである。
実例をみると、天保三年(西暦1832年)壬辰暦では、大の月、小の月及び閏月は、11月に閏月として大の月(30日間)を追加しているので、1年間が13か月あり、日数も30日間増えて384日となる。
(立春への疑問 その3へ続く)

ブラ高野~眉山ロープウェイ

眉山ロープウェイ(びざんロープウェイ)は、1957年12月に開業した、眉山(標高290m)にある徳島市営のロープウェイである。
現在のゴンドラは使用されてから24年になるが、15人乗りの2両連結式となっており、1号車から4号車まで4両が在籍している。
座席はすべて折りたたみ式となっている。夜間運転時にはライトアップが行われる。

眉山ロープウェイのゴンドラ

立春への疑問 その1

九星気学による運勢判定の1年間は、立春(ほぼ2月4日)から始まり翌年の2月3日までであるが、立春とはよく聞くものの、春が始まるのになぜ寒いのか、わかったようで明確に説明できない概念である。本資料は、立春の概念を調査した結果報告である。
真冬の真只中なのになぜ立春というのか。太陰暦は、なぜ季節感がずれているのか。
忠臣蔵の討ち入りは、太陰暦で12月14日(西暦1703年)であるが、現在の太陽暦では1月30日となり、300年前とは約1月半のずれがある。
易経の19番目である地澤臨の8月は、太陽暦換算で9月か10月である。
地澤臨
臨は、元いに亨りて貞しきに利ろし。八月に至れば凶有らん。

太陰暦の基礎的な仕組みは次の通りである。
(1) キーワード
太陰とは、月のことをいう。
太陰暦は、月の満ち欠けを基につくられた暦であるが、太陰暦を理解するキーワードは、月の満ち欠けが一巡する29.5日という数字と朔(さく)、望(ぼう)、晦(つごもり)という闇夜や月夜を意味する名称である。
太陰暦では、毎月の初日は全く月が見えず、月の見えないこの状態を朔(さく)といい、
毎月の1日を「朔日」とも呼び、八朔といえば、8月1日のことを指しているが、八朔という夏ミカンの名称は太陰暦に由来しているのである。
快晴の夜でも月が見えない日を毎月の1日と設定するのである。
この時の見えない月をなぜか「新月」というものの、ネオンサインはおろか電灯もない時代は深い闇に包まれたまま真っ暗な長い夜が続いた。
明智光秀が織田信長を討ち取った本能寺の変は、天正10年6月1日(西暦1582年6月20日)の夜であった。
この日は太陰暦の1日なので、新月すなわち月がない闇夜であった、暗殺の計画性は歴然としていたのである。

月の運行を見ると、満月になるまで15日間かかるので、満月が出る日を毎月の15日に設定する。
夜空を見上げて、満月が出ていると、この日は、太陰暦でいうと必ず15日になる。夜は、中天に輝く月が煌々と光を放ち周囲を真昼のように明るくするが、この明るい夜を招く満月の状態を望(ぼう)という。
日本の行方を決定し、世界史にも影響した関ヶ原の戦いー日本年号の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の夜は、雨や曇りでなければ、15日なので日本各地で満月が出ていたことがわかる。もっとも関ヶ原周辺は、夕方から雨模様だったようである。
晦(つごもり、かい)は、くらます、わかりにくい、という意味である。
月末(30日か29日)になれば、月は再度見えなくなる。これを晦(つごもり)といいまたは、みそかとも読むが、今でも年の終わり12月の31日を大晦日(おおみそか、おおつごもり)というのは、太陰暦の名残りである。
(立春への疑問 その2へ続く)

ブラ高野~南瓜

福岡市美術館所蔵の南瓜は、造形作家の草間 彌生(くさま やよい、1929年生まれ)の作品である。
この人は、総合失調症で幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、絵を書き始めた、という。
かつては前衛の女王とも呼ばれていた。
南瓜をモチーフにした作品も数多い。

南瓜(福岡市美術館所蔵)

八朔とは

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日を意味している。
新暦も旧暦も峻別せずに使うため、テレビニュースでは今日の新暦8月1日が八朔である、と謝って伝えるのである。
新暦では八朔は毎年8月25日頃から9月23日頃までを移動するが、令和5年では9月15日が八朔となる。

また八朔は、ある種のみかんの名称でもある。江戸時代に広島県で見された品種だそうである。

ブラ高野~福岡城の潮見櫓

福岡城下之橋御門の南側に二層の櫓(やぐら)が建っているが、これが、福岡県指定の福岡城潮見櫓である。
潮見櫓は、昔は福岡城の北西角(福岡城の西端角の土塁の内側)にあり、遠く玄界灘、博多湾の形勢を望み、海上からの防禦を担っていた、という。

潮見櫓

高島呑象の天才性 その7~巡洋艦畝傍(うねび)の行方

ア 巡洋艦畝傍主要要目
○排水量~3,615トン
○長さ~98m
○速力~18.5ノット
○艦種~巡洋艦
○兵装~24センチ砲4門等

イ エピソード紹介の趣旨
このエピソードは、どんな天才的な人物でも誤占は避けられないことを表している。占いは100%的中することはあり得ないので占者は1%のミスを覚悟せねばならない。

ウ 状況
畝傍(うねび)は、日清戦争に向けて旧日本海軍がフランスに発注した巡洋艦である。1886年(明治19年)10月に完成、日本に回航される途中、12月3日シンガポール出発後、消息不明となった。
90名を超える乗客乗員は未だに発見されていない。

呑象先生が軍の依頼を受けて、巡洋艦畝傍(うねび)の行方について占ったところ、地水師の四爻であった。

エ 結果~地水師の四爻
師は、正しくなければならない。実力のある司令官に率いれられれば吉で問題ない。
四爻
進み難きを知って退く。この兵法の常道を守れば、咎めを免れる。
※師は師団の師、すなわち戦争のこと。丈人は器の大きな人。

オ 解釈
呑象先生は、「師左き次る。咎なし。」すなわち、左き次る(しりぞき やどる)は軍営を退くこと、咎なし(とがなし)は欠点はあっても咎められることはないという意味であるが、畝傍は戦場を退いて休息している状態であり、目下航路の外に退いて休泊している、とみることができる、また咎なし、とあるので、これは艦を修繕しつつ、いずれかの地に停泊している、と解釈したのである。

カ 結末
この占断は、社会に広がり国民が期待したものの、ついに畝傍は姿を見せることはなかった。政府は畝傍沈没と決定し、遺族に救恤金(きゅうじゅつきん、見舞金)をおくった。これは易聖と呼ばれた高島呑象先生さえはずれることがあるため、全面的に占いに依存するこ

ブラ高野~睡蓮(スイレン)

名前も形も似ていると睡蓮と蓮(ハス)を見分けるのは、茎の長さである。
水面と花の距離が違うのである。
睡蓮は、ほぼ水面に花を開花させる。
一方蓮は、水面からほぼ1メートルのところに花を咲かせる。

また葉に光沢があり大きく切れ込みが入っていて水の上に浮いているのが睡蓮である。
葉が円形で、花と同じように水面から離れた距離があり表面にツヤがないのが蓮である。

睡蓮をモチーフにした絵画は、日本庭園を好んだクロード・モネの連作「睡蓮」がある。

花言葉は、清純。信仰、信頼

睡蓮の属性は、
科・属名~スイレン科スイレン属
原産地~熱帯地域から温帯地域
英名~Water Lily
開花~5月から10月
花の色~ピンク、白、黄、オレンジ

睡蓮(福岡城内)

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