高野白山の九州易占塾

徒然の記

鉄製品のつくり方~鍛造(たんぞう)と鋳造(ちゅうぞう)

鍛造は柔らかくした鉄をたたいて成型し、鋳造はドロドロに溶かした鉄を鋳型に流し込む加工法である。どちらでも同じかたちの製品をつくることができる。
鍛造は電動ハンマーでたたきながら銅などの不純物を火花にして排出し、鉄の中の気泡をとるため、粘り強さが出てくるのである。
日本刀の鍛造は、木炭で1300度程度に熱して柔らかくした鉄のかたまりを金づちや小づちでたたきながら薄くのばして、さらに折り込んで団子状にして、またたたいて引き延ばすという作業を8回から20回繰り返す。
日本刀は細身で丈夫であるが、使いすぎると折れるというより、ぐにゃっと曲がるのである。
鋳型(いがた)にどろどろの鉄を流し込む鋳造は、残ったスカスカの気泡が強度を下げるのでもろくなり、したがって鋳造した鉄製品は折れやすく割れやすい。ただし、鋳造は、大量生産しやすい利点がある。

易とは何か その18~天、人、地の三材(才)

○天、人、地の三材(才)
易という書物は、内容が広大であらゆる道理を備えている。天道と人道と地道がある。
天と人と地の三材(才)がそれぞれ二つの爻に該当し、その合計が六つの爻である。六という数は他でもない、三材(才)の道なのである。そして三材(才)には、変動があり、その変動に効(なら)うという意味で爻(こう)と呼ばれるのである。

○書き下し文
易の書たるや、広大ことごとく備(そな)わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材(さんざい)を兼(か)ねてこれを両(ふた)つにす。故に六なり。六とは它(た)にあらざるなり。三材の道なり。道に変動あり、故に爻(こう)という。
※它(た)~ほか

易とは何か その17~易作者の憂慮

○易作者の憂慮
易書の成立は、殷末期、周初期であろうか。易の作者は、時勢を憂いていたのであろうか。

○書き下し文
易の興るや、それ中古におけるか。易を作る者は、それ憂患あるか。

ブラ高野~小倉祇園太鼓

小倉祇園太鼓は、八坂神社(北九州市小倉北区)の例大祭で、江戸時代以来、約400年の歴史を持つ祭りである。京都の祇園祭、博多の博多祇園山笠と共に全国三大祇園ともいわれ、福岡県内では博多祇園山笠、戸畑祇園大山笠と共に福岡県の三大祇園とも位置づけらている。
小倉祇園太鼓は太鼓とすり鉦(ジャンガラ)による演奏が主役となる太鼓祇園である。
演奏のスタイルには山車に太鼓を設置し叩きながら練り歩く「廻り太鼓」と、台に設置した太鼓を叩く「据え太鼓」が存在する。
太鼓の音には天下泰平、国土安泰、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全を願う意味が込められ、昔から「祇園風に吹かれると夏患いせぬ」という。
なお、この祭に女人禁制はなく、女性が山車を引いても太鼓を叩いても問題ない。
小倉祇園太鼓は、岩下俊作の小説「乱れ打ちの一生」で紹介され、無法松のあざなを持つ人力車夫による太鼓の乱れ打ちで全国的に有名になった。

小倉祇園太鼓

 

 

易とは何か その16~易経の含蓄№3

ウ 火風鼎
人徳がないのに高位におり、知恵が乏しいのに大事を企て、力が足りないのに重任を引き受ける者には禍が降りかかる。火風鼎の四爻に、鼎足を折り、公の餗(そく)を覆(くがえ)す。
その形渥(かたちあく)たり。凶である、とは能力以上のことはするなという戒めである。
※公の餗(そく)~公の宴席におけるごちそう ※渥(あく)~重罪

○書き下し文(繋辞伝より作成)
子曰(いわ)く、徳薄くして位尊(たか)く、知小にして謀(はかりごと)大に、力小にして任重ければ、及ばざること鮮(すくな)し。易に曰(いわ)く、鼎(てい)足を折り、公の餗(そく)を覆(くつがえ)す、その形(かたち)渥(あく)たり、凶なりとは、その任に勝(た)えざるを言うなり。

徳川家康の本質 その2~狂気

姓名判断で徳川家康の人物像をみると、主運は申し分ない「智力冨栄」であるが、三才と五行の相関では、天格が18画、すなわち先祖の因縁から「甚(はなは)だしきは発狂変死す」という精神障害の資質を持っていることがわかる。
三河の英雄であった祖父松平清康は家臣から暗殺された。
父の松平弘忠も徳川家康が幼少時に亡くなったが、暗殺説をいまだに否定できない。
今川家や織田家の人質として、辛酸をなめるこの人の副運は、26画の「変怪数奇」である。

三方が原の戦いでは、魚鱗の陣で固めた、3倍近い優勢な武田軍に向かってしゃにむに突撃して、命からがら浜松城に逃げ帰った。
武田方の目的地は京都であったので、城に立てこもって防備を固め、やり過ごせばいいだけ話である。
なぜ、勝てるはずがないのに命懸けで突撃したのか、謎である。
桶狭間の奇襲をした織田信長の真似をしたわけではないと思うが、後世はいまだに納得できる答えを見つけていない。金ヶ崎の戦いに負けて敗走中に「腹切る」とわめきだしたり、関ヶ原の戦いでは金吾中納言の裏切りを待つ間しきりに爪を噛んだり、奇妙な行動が目につくのである。

そこで姓名判断の結果を参考にこの人は、先祖に由来する精神の病(やまい)を持っていたのではないか、と考えればつじつまが合うのである。理解に苦しむ行動も納得できる。
徳川家康を理解するキーワードは、狂気である。
日本の王者になったあとは平和を希求しながら、一生をかけてそれを隠しきったのであろう。

なお、徳の字は、旧字体の德であり、本稿では15画としている。

易とは何か その15~易経の含蓄 №2

○易経の含蓄№2

イ 雷地予
事物の機微(きび)を察すること、これこそ霊妙そのものというべきである。君子は、上に対して恭順を守るが、へつらうことはない。下に対しては親しむが、それによって身を汚すことはない。将来の禍(わざわい)の機微(きび)を察するからである。
機微(きび)とは、事物の動きのごくかすかな兆(きざし)である。そこにはすでに吉凶の端緒(たんちょ)が現れている。それゆえ君子は機微(きび)を見てただちに起(た)ち、時を移さず処理するのである。予卦六二(りくに)の爻辞に「介(かた)きこと石の于(ごと)し。日を終えず。貞なれば吉なり」とある。意志が石のごとく堅いのだ。どうして機微(きび)を見ながら無為に日を送ろうか。果断は機微(きび)を察することから生まれるのである。
君子は微(び)を知るがゆえに顕(けん)を知り、柔を知るがゆえに剛を知る。かくてこそ万人の仰(あお)ぎみるところとなるのである。

○書き下し文(繋辞伝より作成)
子曰く、幾(き)を知るはそれ神か。君子は上と交(まじ)りて諂(へつら)わず、下と交(まじ)じりて穢(けが)れず、それ幾(き)を知れるか。幾(き)は動の微(び)にして、吉の先(ま)ず見(あらわ)るるものなり。君子は幾(き)を見て作(た)ち、日を終うるを俟(ま)たず。易に曰(いわ)く、「介(かた)きこと石の于(ごと)し。日を終えず。貞なれば吉なり」と。介(かた)きこと石のごとし。なんぞ日を終うるを用いんや。断なること識(し)るべし。君子は微(び)を知りて彰(しょう)を知り、柔を知りて剛を知る。万夫(ばんぷ)の望(のぞみ)なり。

徳川家康の本質 その1~二重人格

徳川家康の右手に見えるますかけ線は、頭脳線が変化して、感情線と一体となった、直線のシワである。
ますかけ線の持ち主は、常識で考えられないほどしぶとくしつこいといわれており、さらに気難しく、人に本心を見せることはない。
ただし、外見は物腰が柔らかく、内心と見かけのギャップが激しいのが特徴で、しかしながら不思議に強運である。

西暦1614年、方広寺(京都市東山区)の梵鐘(ぼんしょう)が豊臣家の尽力により完成したが、徳川家康は開眼供養の延期を命じた。
記録文である銘文(めいぶん)のうち、「国家安康」「君臣豊楽」という部分が「家康を分断し、豊臣家が君主として栄える」という意味で、これは徳川家康を呪詛したものであると難癖をつけたのである。
大坂の陣(西暦1614年)開戦の口実づくりでもあった。
豊臣家滅亡の翌年、徳川家康は他界したが、豊臣家が滅亡するまでは死ぬことができないという執念深さを感じさせる事件である。

さらに、徳川家康の本命星である八白土星の特徴は、人当たりは柔らかいものの、内面は、ひどく頑固、信念と違う場合は、テコでも動かない頑固さを持っているのである。

この人物は、穏やかなおもて面とは別に実は、執念深さ(手相)と頑固さ(本命星)をあわせもつ二重人格者であることがわかる。

「天正八年辰十一月一日家康」という署名は徳川家康の自筆である。

徳川家康の手形(久能山東照宮所蔵)

 

 

易とは何か その14~易経の含蓄 №1

○易経の含蓄~№1
ア 天地否
危いと思って反省する人間は、地位が安泰であり、亡びを恐れて行いを振り返る者は、存立できる者である。乱れを心配する者は、治世を保つ者である。
したがって、君子は、安全と思っても危機を忘れず、国が順調に存立している場合でもその滅亡を忘れず、治にいても乱を忘れないのだ。このようにしてその身はやすらかとなり、国家の安泰を保つのである。
天地否の五爻にも、「それ亡びなん、亡びなん、苞桑(ほうそう)に繋(かか)る」と言っているのである。
※苞桑(ほうそう)に繋る~桑の木の根元にしがみついて危うい状態

○書き下し文(繋辞伝より作成)
子曰(いわ)く、危(あや)うき者は、その位(くらい)に安んずる者なり。亡びんとする者は、その存を保つ者なり。乱るとする者は、その治を有(たも)つ者なり。この故に君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり。易に曰(いわ)く、それ亡びなんそれ亡びなんとて、苞桑(ほうそう)に繋(かか)る、と。

ブラ高野~渡唐口(とからくち)


鏡天満宮(福岡市博多区川端)の入口にある渡唐口(とからくち)は、大陸と行き来した遣唐使船を係留し、出発した船着き場の跡である。

遣唐使といえば、7世紀から9世紀の頃であるが、今でも鏡天満宮から100m程度離れた所に中洲中島町という地名が残っているように、この辺一帯は島であった。
現在は背振山系から流れて来る土砂が堆積して水深1m程度、浅くなっているが、当時は木造の大船が出入りできる深さだったのである。

博多は、古くから海外との貿易で財を成した博多商人が闊歩していた街であるが、中世の博多は、今よりずっと博多湾が内陸に入り込み、大きな貿易船が接岸できたのである。

現在の渡唐口

渡唐口の碑

TOPページ

ページの先頭へ