高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

高島呑象の天才性 その2~将来の見通し

1 状況
呑象先生は、商品購入で金貨である小判を外国商人に支払い、商品売却では海外に比較して3倍の価値がある銀貨を受け取っていた。
小判で支払いを受けた外国商人は、これを鋳つぶして金塊として国際市場で売却し利益を上げていた。
当然国内から金がなくなるので、幕府は、小判(金貨)による支払いを禁止していたのである。

2 結果~地雷復の上爻
小判の闇取引が発覚したため、北町奉行所へ自首する前に、将来の見通しについて占った結果は、一陽来復を意味する地雷復の上爻であった。
地雷復~苦しみは長くはない
上爻~人災、天災あり

3 国内外の金銀交換比率
幕末の国内と海外の金銀交換比率をみると、国内では金と銀の交換比率は1:5、海外では1:15、金1グラムの価値は、国内では銀5グラム、海外では銀15グラムと等しく、即ち国内では海外に比較して銀が高かったのである。
銀の国内価格は海外の3倍であった。
前述のように、日本商人は外国から商品を購入する時は、金で支払い、商品の売却では銀を受け取っていたのである。
このため、国内から金が流出し、インフレの要因となった。

「16世紀中頃の銀価格は、銀1両(約40グラム)が国内では銅銭250グラム、同じ重さで明では銅銭750グラムであった」、という。すなわち国内では銀高、海外では銀安であった。
(週刊文春平成30年11月15日号 出口治明の0から学ぶ日本史講義より)

4 伏卦
地雷復の卦辞と上爻辞が相反する結果が出ているため、変爻すると、山雷頤の上爻である。
無事出牢した後の生活を暗示して象徴的である。

山雷頤~食っていける
上爻~頼りにされる、吉、大いなる喜びがある

ブラ高野~キャナルシティ博多

キャナルシティ博多(福岡市博多区)は、1993年6月に着工、1996年4月に開業した、劇場やホテルが混在する商業施設であり、博多部再開発の核である。

この施設は7つの建物群から構成されている。
キャナルシティ・オーパビルが中央部に位置し、それを扇状に拡げる形でシアタービル、福岡ワシントンホテルビル、ビジネスセンタービル、アミューズメントビル、メガストアビル、オーパビルの対向にグランドハイアット福岡ビルが置かれている。

英語で運河を意味するキャナル (canal) の名の通り、地下1階には疑似運河が流れている。
この疑似運河に沿って舞台が設置され、マジックショーをはじめ様々なイベントが行われており、週末は音楽ライブや地元テレビ局の番組収録も頻繁に行われている。

なお2023年にはキャナルシティ博多のすぐ北側に福岡市地下鉄七隈線が開業し、櫛田神社前駅が設置されるので、行きやすく便利がよくなる。

 

高島呑象の天才性 その1~安政2年(1855年)の大地震・大火災を予知

高島呑象(本名 高島嘉右衛門 たかしまかえもん)、易占家、事業家、大正3年10月17日没、享年83歳

大量のナマズが獲れる上、妙な釜鳴りがするため、胸騒ぎがして、易を立てたところ、離為火の上爻が出た。
この占者の凄みは、意味はともかく火が二つ重なった離為火という卦の名称を見ただけで、大火災・大地震(死者20万人)の発生を予知したことである。
事業家でもある呑象先生は、山ごと木材を買い占め、一財産つくった。

離為火の上爻は次の意味である。
離為火~トラブル多発
上爻~王様の出征

ブラ高野~天神ビックバン その2

天神ビックバンは福岡市中央区天神地区再開発の名称である。
ここではコロナも不景気も物価上昇も無関係に派手なビルの建設工事がたけなわである。
狭い範囲に43個の新ビルが出現することになるが、その概要は次の通りである。

⑴ 地域と手法
地区~福岡市中央区天神地区
手法~再開発

⑵ 範囲
天神交差点から半径500m、
面積~8ha

⑶ 建築確認の申請数
建築確認申請数~52棟
竣工予定棟数~43棟

工事柵の楽しい絵画

佐久間象山の占断例

佐久間象山(さくま  ぞうざん)は、幕末の松代藩士、革命活動家、思想家である。
(1811年3月~1864年8月、享年53歳)
⑴ 状況
明治維新の4年前、寺田屋事件や生麦事件等社会不安が充満し、京都では暗殺事件が頻発していた1864年、佐久間象山は幕命により上洛したが、その直前に上洛の是非を自らが占って出た卦は、澤天夬の上爻であった。
これは易経が教えている危険信号を無視したため、凶運を避けることができなかった事例である。

澤天夬~あやうきことあり
上爻~さけぶことなし。ついに凶あり。

⑵ 上洛
易経があやうきことあり、と警告しているにもかかわらず、佐久間象山は、都路(みやこじ)と名付けた馬に乗って、意気揚々と上洛した。
中川の宮家(京都)の庭先で都路に乗って西洋馬術を演じ、手綱(たづな)裁きを褒(ほ)められた佐久間象山は感激して「都路を王庭とあらためてさらに修練を積みたいものです」と申し上げた。
こともあろうに、易経に書いている「王庭」を馬の名にする、というのである。

⑶ 結果
さけぶことなし、と易経が教えたように中川の宮家からの帰途、馬上で浪士に左右から斬りつけられ叫ぶ間もなく暗殺された。

⑷ 高島呑象先生のなげき
高島呑象先生は、次のように嘆息した、という。
「象山先生ほどの方にしても、このようなことがあるのか。先生の死が運命であるとしても、易占(えきせん)があらかじめ凶を示しているのにどうしてこれを避けることができなかったのだ。易をよく知りながら、これを守ることができなかったのだ。何としても惜しいことである」
※参考~易断に見る明治諸事件(片岡紀明著)

ブラ高野~蒙古軍船の碇石

博多港の中央波止場付近で発見され、筥崎宮に保存されている蒙古軍船の碇石は一の鳥居を過ぎて、右側すぐの大楠の向かい側にある。
ここに2個の碇石が置かれているが、向かって手前の碇石が福岡県の有形文化財である。
これらは、全長が2~3mの角柱状の石で、中央部が広く、両端がややせまくなっている。
表面に粗い加工痕があり、稜線を面取りしたもので、中央部にロープを結ぶための溝が掘り込まれ、碇石として利用した跡がはっきり読み取れる。

およそ750年前に九州の御家人が元寇を迎え撃った箱崎浜は、「夏草や兵どもが夢の跡」(松尾芭蕉)という俳句を思い出させるほど、今では静かな松林が続いている。

蒙古軍船の碇石

看板

組立図

九星気学とは何か?

1 概要
九星気学で扱う九つの星は、一白水星や二黒土星という名称はついているものの夜空に輝く星ではなく、方角ごとに仮想された地上の星である。
幾日旅を続けても、ひたすら大地が続くだけで東西の方角はおろか自分の位置さえわからなくなるという、ただ広大な中国大陸に住む人々は、満天の星が空を支配し方位を示すのを見て、地上を支配し方角を教えるバーチャルな星を希求し九つの星を生み出した。九星気学によって我々は以下四項目について説得力ある答えを受け取ることができる。

2 方位の吉凶
東、西、南、北、東北、東南、西北、西南及び中心部あわせて九つの方位に星の名称をつけた九星とは方位の目印であり、当初中国大陸では九星術という名称であった。
しかしながら、単なる道しるべであった九つの星は、やがて人の一生を支配する生まれ星という概念の発明によって、方位の善し悪しを判断するようになる。
方位には凶方位と吉方位があるが、方位学は暗剣殺をはじめとする凶方位を探索する手法である。
凶方位の一例を挙げると、暗剣殺は突然暗闇から斬りつけられるような不運、五黄殺は持病がじわじわと悪化していくような宿命的な不幸を意味している。

3 運勢変転の原則
中国大陸では九星術という方位学であった九星は、日本に渡来し運勢や性格、相性も判定するようになり、現在では九星気学と呼ばれている、日本生まれの占術である。
運勢の強弱を教える八卦の上を生まれ星が巡回しているので、人間の運勢は八卦に引きずられ刻々と変化していくのである。
最強の運勢である中宮に生まれ星が重なった場合は、幸運が続くものの、ちょっとしたミスが命取りになるので、この時に限っては事業の立ち上げ不可、また最も運勢が弱くなる坎の位置に生まれ星が廻った年は、何をしてもうまくいかないが、勉強・研究がはかどる時期である。

4 相性判定
五つの元素から成り立つ宇宙を図案化した五行に九星を配当することにより、人間関係の相生と相剋を探究し、判定することができるようになった。
例示すると、火である九紫火星と土である五黄土星は、火は土を生み出すので相生、水である一白水星と火である九紫火星は、水は火を消すので相剋の関係となるのである。
九星それぞれの相性を知っていれば、人間関係の善し悪しはもちろん性格も把握できるので、明るい知恵をもって生きていくことができる。

5 性格判定
九星と八卦の意義を融合、応用して、生まれ年と生まれ月によって、人物の性格や個性 、生き様を探り、明らかにできるが、この手法を傾斜法という。傾斜法を使うと、なぜ人間の見かけと本質をえぐり出すことができるのか、不可思議というほかない。

6 運命学の白眉
九星気学という運命学の新たな体系をつくり上げた創始者たちは、空に輝く星をみて、地上に想定した星もぐるぐる廻りながら方位や運勢、人間性、人間関係を決めていく、と思い至ったのである。
九星は、易や五行のように確固とした思想・原理があるわけではなく、実情は、民間土俗伝承の一つであるが、データ蓄積に基づく判断法であるので、占いではないものの、特に運勢の変転、相性判定、性格判定では8割程度的中することを考えれば的中率の高さから易占とともに隠れたえにしをこの世界へ引っ張り出す、運命学の白眉といって差し支えない。

ブラ高野~杉玉(すぎだま)

杉玉は、スギの穂先を集めてボール状につくった縁起物の造形物である。
酒林(さかばやし)ともいわれる。
日本酒の造り酒屋の軒先に杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせたのである。

杉玉は、お酒の神様である大神神社(奈良県桜井市三輪)の習俗である。
大神神社では、毎年11月14日に「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきた。
大神神社がある三輪山のスギは聖なるものとされているため、スギを使った杉玉ができたのある。

その習慣が江戸時代初頭から全国の酒蔵へ広まった。
本来は杉玉を酒蔵の軒先に吊るす習わしだったが、現在では酒蔵に限らず居酒屋でも飾っていることがある。

杉玉(福岡市早良区西新)

敗者の痛み

時はBC202年漢楚興亡の末期、垓下の戦いで四面楚歌、滅亡を覚悟した項羽(BC232年~202年)の心境は、次の通り後世に伝えられている。
項羽が最後の宴で詩を詠んでいる場面を史記から引用しよう。

史記:
「項王、即ち夜起(た)ちて、帳中に飲す。美人あり。名は虞(ぐ)、常に幸せられて従う。駿馬あり、名は騅(すい)、常にこれに騎す。是(ここ)において、項王、乃ち悲歌杭慨(ひかこうがい)し、みずから詩を為(つく)りて曰(いわ)く、
力は山を抜き 気は世を蓋ふ
時に利あらずして 騅(すい)逝かず
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。」

現代語訳:
「項王は、夜中であるが於き出して。帳(とばり)の中でささやかに最後の宴を張った。美人がいた。名を虞(ぐ)といい、項王はいたく寵愛して、いつも離さず連れていた。また、世に優れた名馬がいた。名を騅(すい)といい、項王の常に乗る馬であった。項王の胸の中を名状し難い激情が駆け抜けた。項王は心の高まりのままに、みずから詩を作り、むせぶような抑掦(よくよう)をつけて歌った。

力は山を抜き 気は世を蓋ふ (ちからはやまをぬき、きはよをおおう)
時に利あらずして 騅(すい)逝かず (ときにりあらずして すいゆかず)
騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん (すいゆかざるをいかんせん)
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん (ぐやぐやなんじをいかんせん)
と。歌うこと数闋(すうけつ)。美人これに和す。項王、泣(なみだ)、数行下る。左右、皆泣き、能(よ)く仰ぎ視るものなし。

幾回か繰り返してうたい、虞美人もこれに唱和した。
一座の者もみな泣き、顔をあげられるものは誰もいなかった。」

時に利あらずして、と詠っているように項羽は、敗北の原因は自分ではなく時勢にある、と思っていたのである。
これに史記の著者である司馬遷(BC145年~BC87年)は次のように激しく非難している。

史記:
太史公曰く、みずから攻伐に矜(ほこり)り、其の私智を奮いて、古(いにしえ)を師とせず、覇王の業と謂(おも)い、力征を以って、天下を経営せんと欲せしも、五年にして卒(つい)に其の国を滅ぼし、身は東城に死せり。尚お覚寤(かくご)せずして、みずから責めざしは、過てり。乃ち「天、我を滅ぼす。兵を用うるの罪にあらざるなり」を引く。
豈(あ)に謬(あやま)らずや。
※太史公は司馬遷自身のこと

現代語訳:
ある記録官は言う、自分の功を誇り、自分の知恵ばかりに頼って、過去の教訓によろうとはしなかった。己(おのれ)のなすところこそ覇王の事業と信じ込み、ただ武力によって天下を運営してゆこうとし、五年にしてついにその国を失ったのである。東城で首かき切って死んだときでさえ、なおそのことに気が付かず、みずからを責める気持ちがなかったが、それは間違っている。しかも「天がわたしを滅ぼすのだ。戦術のまずさのためではない。」と言い張るの及んでは、誤謬(ごびゅう)も甚(はなはだ)しいというべきではないか。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著)
目次~項羽本紀 264~265頁抜粋

ブラ高野~頭山 満

西新緑地(福岡市早良区)には頭山 満(とうやま みつる、1855年5月生まれ)が植えたという楠木の大樹が元気に育っている。

頭山 満は、板垣退助の影響で自由民権運動に共鳴し国会開設運動に参加して、明治維新に乗り遅れた福岡藩士を中心にした共愛会という政治結社を創設した。
1881年に国会開設の詔勅が出ると共愛会を玄洋社と改名し、自由民権運動から離れて国権伸張を主張し、欧米列強の侵略に対抗するため、大アジア主義を唱導するようになり、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張し続けた。
孫文の革命運動を支援したり、韓国併合など国権の推進運動をすすめ、今から思えば夢物語に過ぎない大アジア主義を実践した人物である。
この人の思想、人生行路がとりとめがなくわかりにくいのは、京都から函館まで日本列島のほぼ半分を革命戦に巻き込んだ明治維新を経験したという、明治時代の特殊性に由来するのであろうか。

頭山 満が幼少時に植えた楠木

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