高野白山の九州易占塾

徒然の記

ブラ高野~小倉祇園太鼓

小倉祇園太鼓は、八坂神社(北九州市小倉北区)の例大祭で、江戸時代以来、約400年の歴史を持つ祭りである。京都の祇園祭、博多の博多祇園山笠と共に全国三大祇園ともいわれ、福岡県内では博多祇園山笠、戸畑祇園大山笠と共に福岡県の三大祇園とも位置づけらている。
小倉祇園太鼓は太鼓とすり鉦(ジャンガラ)による演奏が主役となる太鼓祇園である。
演奏のスタイルには山車に太鼓を設置し叩きながら練り歩く「廻り太鼓」と、台に設置した太鼓を叩く「据え太鼓」が存在する。
太鼓の音には天下泰平、国土安泰、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全を願う意味が込められ、昔から「祇園風に吹かれると夏患いせぬ」という。
なお、この祭に女人禁制はなく、女性が山車を引いても太鼓を叩いても問題ない。
小倉祇園太鼓は、岩下俊作の小説「乱れ打ちの一生」で紹介され、無法松のあざなを持つ人力車夫による太鼓の乱れ打ちで全国的に有名になった。

小倉祇園太鼓

 

 

易とは何か その16~易経の含蓄№3

ウ 火風鼎
人徳がないのに高位におり、知恵が乏しいのに大事を企て、力が足りないのに重任を引き受ける者には禍が降りかかる。火風鼎の四爻に、鼎足を折り、公の餗(そく)を覆(くがえ)す。
その形渥(かたちあく)たり。凶である、とは能力以上のことはするなという戒めである。
※公の餗(そく)~公の宴席におけるごちそう ※渥(あく)~重罪

○書き下し文(繋辞伝より作成)
子曰(いわ)く、徳薄くして位尊(たか)く、知小にして謀(はかりごと)大に、力小にして任重ければ、及ばざること鮮(すくな)し。易に曰(いわ)く、鼎(てい)足を折り、公の餗(そく)を覆(くつがえ)す、その形(かたち)渥(あく)たり、凶なりとは、その任に勝(た)えざるを言うなり。

徳川家康の本質 その2~狂気

姓名判断で徳川家康の人物像をみると、主運は申し分ない「智力冨栄」であるが、三才と五行の相関では、天格が18画、すなわち先祖の因縁から「甚(はなは)だしきは発狂変死す」という精神障害の資質を持っていることがわかる。
三河の英雄であった祖父松平清康は家臣から暗殺された。
父の松平弘忠も徳川家康が幼少時に亡くなったが、暗殺説をいまだに否定できない。
今川家や織田家の人質として、辛酸をなめるこの人の副運は、26画の「変怪数奇」である。

三方が原の戦いでは、魚鱗の陣で固めた、3倍近い優勢な武田軍に向かってしゃにむに突撃して、命からがら浜松城に逃げ帰った。
武田方の目的地は京都であったので、城に立てこもって防備を固め、やり過ごせばいいだけ話である。
なぜ、勝てるはずがないのに命懸けで突撃したのか、謎である。
桶狭間の奇襲をした織田信長の真似をしたわけではないと思うが、後世はいまだに納得できる答えを見つけていない。金ヶ崎の戦いに負けて敗走中に「腹切る」とわめきだしたり、関ヶ原の戦いでは金吾中納言の裏切りを待つ間しきりに爪を噛んだり、奇妙な行動が目につくのである。

そこで姓名判断の結果を参考にこの人は、先祖に由来する精神の病(やまい)を持っていたのではないか、と考えればつじつまが合うのである。理解に苦しむ行動も納得できる。
徳川家康を理解するキーワードは、狂気である。
日本の王者になったあとは平和を希求しながら、一生をかけてそれを隠しきったのであろう。

なお、徳の字は、旧字体の德であり、本稿では15画としている。

易とは何か その15~易経の含蓄 №2

○易経の含蓄№2

イ 雷地予
事物の機微(きび)を察すること、これこそ霊妙そのものというべきである。君子は、上に対して恭順を守るが、へつらうことはない。下に対しては親しむが、それによって身を汚すことはない。将来の禍(わざわい)の機微(きび)を察するからである。
機微(きび)とは、事物の動きのごくかすかな兆(きざし)である。そこにはすでに吉凶の端緒(たんちょ)が現れている。それゆえ君子は機微(きび)を見てただちに起(た)ち、時を移さず処理するのである。予卦六二(りくに)の爻辞に「介(かた)きこと石の于(ごと)し。日を終えず。貞なれば吉なり」とある。意志が石のごとく堅いのだ。どうして機微(きび)を見ながら無為に日を送ろうか。果断は機微(きび)を察することから生まれるのである。
君子は微(び)を知るがゆえに顕(けん)を知り、柔を知るがゆえに剛を知る。かくてこそ万人の仰(あお)ぎみるところとなるのである。

○書き下し文(繋辞伝より作成)
子曰く、幾(き)を知るはそれ神か。君子は上と交(まじ)りて諂(へつら)わず、下と交(まじ)じりて穢(けが)れず、それ幾(き)を知れるか。幾(き)は動の微(び)にして、吉の先(ま)ず見(あらわ)るるものなり。君子は幾(き)を見て作(た)ち、日を終うるを俟(ま)たず。易に曰(いわ)く、「介(かた)きこと石の于(ごと)し。日を終えず。貞なれば吉なり」と。介(かた)きこと石のごとし。なんぞ日を終うるを用いんや。断なること識(し)るべし。君子は微(び)を知りて彰(しょう)を知り、柔を知りて剛を知る。万夫(ばんぷ)の望(のぞみ)なり。

徳川家康の本質 その1~二重人格

徳川家康の右手に見えるますかけ線は、頭脳線が変化して、感情線と一体となった、直線のシワである。
ますかけ線の持ち主は、常識で考えられないほどしぶとくしつこいといわれており、さらに気難しく、人に本心を見せることはない。
ただし、外見は物腰が柔らかく、内心と見かけのギャップが激しいのが特徴で、しかしながら不思議に強運である。

西暦1614年、方広寺(京都市東山区)の梵鐘(ぼんしょう)が豊臣家の尽力により完成したが、徳川家康は開眼供養の延期を命じた。
記録文である銘文(めいぶん)のうち、「国家安康」「君臣豊楽」という部分が「家康を分断し、豊臣家が君主として栄える」という意味で、これは徳川家康を呪詛したものであると難癖をつけたのである。
大坂の陣(西暦1614年)開戦の口実づくりでもあった。
豊臣家滅亡の翌年、徳川家康は他界したが、豊臣家が滅亡するまでは死ぬことができないという執念深さを感じさせる事件である。

さらに、徳川家康の本命星である八白土星の特徴は、人当たりは柔らかいものの、内面は、ひどく頑固、信念と違う場合は、テコでも動かない頑固さを持っているのである。

この人物は、穏やかなおもて面とは別に実は、執念深さ(手相)と頑固さ(本命星)をあわせもつ二重人格者であることがわかる。

「天正八年辰十一月一日家康」という署名は徳川家康の自筆である。

徳川家康の手形(久能山東照宮所蔵)

 

 

易とは何か その14~易経の含蓄 №1

○易経の含蓄~№1
ア 天地否
危いと思って反省する人間は、地位が安泰であり、亡びを恐れて行いを振り返る者は、存立できる者である。乱れを心配する者は、治世を保つ者である。
したがって、君子は、安全と思っても危機を忘れず、国が順調に存立している場合でもその滅亡を忘れず、治にいても乱を忘れないのだ。このようにしてその身はやすらかとなり、国家の安泰を保つのである。
天地否の五爻にも、「それ亡びなん、亡びなん、苞桑(ほうそう)に繋(かか)る」と言っているのである。
※苞桑(ほうそう)に繋る~桑の木の根元にしがみついて危うい状態

○書き下し文(繋辞伝より作成)
子曰(いわ)く、危(あや)うき者は、その位(くらい)に安んずる者なり。亡びんとする者は、その存を保つ者なり。乱るとする者は、その治を有(たも)つ者なり。この故に君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり。易に曰(いわ)く、それ亡びなんそれ亡びなんとて、苞桑(ほうそう)に繋(かか)る、と。

ブラ高野~渡唐口(とからくち)


鏡天満宮(福岡市博多区川端)の入口にある渡唐口(とからくち)は、大陸と行き来した遣唐使船を係留し、出発した船着き場の跡である。

遣唐使といえば、7世紀から9世紀の頃であるが、今でも鏡天満宮から100m程度離れた所に中洲中島町という地名が残っているように、この辺一帯は島であった。
現在は背振山系から流れて来る土砂が堆積して水深1m程度、浅くなっているが、当時は木造の大船が出入りできる深さだったのである。

博多は、古くから海外との貿易で財を成した博多商人が闊歩していた街であるが、中世の博多は、今よりずっと博多湾が内陸に入り込み、大きな貿易船が接岸できたのである。

現在の渡唐口

渡唐口の碑

易とは何か その13~去と来の意味

○去と来の意味
太陽が沈めば月が昇る。月が隠れれば太陽が昇る。日月が交代で推移することにより、自然の明るさが生じるのである。
寒さが過ぎれば暑くなる、暑さが去れば寒くなる。暑さと寒さが互いに推移して1年が形成される。
去るとは消滅ではなく、屈すること、すなわち身を縮めて力を蓄えることである。来るとは、伸びること、すなわち身を伸ばして力を発揮することである。
屈と伸の交替・循環により、大きな効果が生じるのである。

○書き下し文(繋辞伝より作成)
日(ゆ)往けばすなわち月来(きた)り、月往けばすなわち日来り、日月相推(あいお)して明(めい)生ず。
寒往けばすなわち暑来り、暑往けばすなわち寒来り、寒暑相推(あいお)して歳(さい)成る。
往くとは屈するなり。来るとは信(の)ぶるなり。
屈信(くつしん)相感じて利生ず。

不吉の戦闘旗~大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)


東西16万人の兵士が戦った関ヶ原の戦いは、今から420年前の西暦1600年、西軍の惨敗で終わった。
この国の三大内乱は、壬申(じんしん)の乱、関ヶ原の戦い、明治維新と続くが、東西対決は、西軍の1勝2敗である。源平合戦を含めると、さらに東国優位が明確になる。

大一大万大吉の旗印は、関ヶ原の戦いで、笹尾山に陣取った石田三成公の戦闘旗であるが、漢字の画数は全部で合計19画、これは障害多難を意味しているので、当然ながら凶である。
運勢が強すぎ、極端に縁起が良い文字を六つも書いた旗印を立てて戦闘に臨むのは、東軍による戦況の揺り戻しを覚悟する必要がある。運命学では、吉と凶の絶え間ない交代・変化が事物の本質とみるのである。
石田三成公の陣営は、「治部 憎し」と東軍諸将の集中攻撃を受け、戦線全体を支えきれなかった。
吉の次には凶、陽の次は陰が待っていたのである。

それにしても西軍の負け方がひどかった。
250万石の太守を相手に五分は無理にしても、せめて四分六分で停戦に持ち込めなかったのが残念である。
当初から第二戦線を想定して、豊臣秀頼を擁して大阪城に立てこもり、戦う姿勢を見せ長期戦に持ち込めれば、チャンス到来もまんざら絵空事ではなかったのである。
勝てる、と思い込んでいたので、乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負に出たのであろう。

大一大万大吉の戦闘旗は不吉ではないか?

旗印(大一大万大吉)

 

 

 

易とは何か その12~八卦の由来

○八卦の由来
むかし天下に王として君臨していた包犠(ほうぎ)氏は、上を仰いでは天体の現象を観測し下を見ては大地の形状を観察し、鳥獣の模様や土地の有様を見て、また近い所では自分の身体を参考に、遠い所では、物のかたちを見て初めて八卦をつくったが、八卦により、天地神明の徳を反映させ、万物の情報を分類したのである。

○書き下し文(繋辞伝より作成)
古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いですなわち象(しょう)を天に観(み)、俯(ふ)してはすなわち法を地に観、鳥獸の文と地の宜(ぎ)とを観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳を通じ、もって万物の情を類(るい)す。
※宜~有様、様子

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