高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

中国の名臣晏嬰(あんえい)

⑴ 晏嬰の人物
晏嬰(BC578~500年)は、斉の人である。晏平仲(あんぺいちゅう)あるいは晏子(あんし)と尊称され、斉(せい)の霊公、荘公、景公という三代の主君に仕えた。
崔杼(さいちょ)が荘公を殺したのは、BC548年のことである。
荘公が夫人の宲姜と密通したからであるが、クーデターは成功し崔杼は慶封と組んで政権を強奪した。

クーデター直後、崔杼と慶封は、貴族を集めて「崔と慶に組しない者は殺す」と宣言した。しかし、晏嬰は「君主に忠誠を尽くし、社稷(しゃしょく)のためになる者に従う」と一歩も引かず、崔杼も反クーデターを恐れて、民衆の支持を受けている晏嬰を殺すことはできなかった。
晏嬰はただの堅物ではなく、頓智のきいた面白い人柄でもあったので人々に愛されたのであろう。
晏嬰の名声は数々のエピソードとして伝えられている。
※社稷(しゃしょく)~社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。転じて、国家のことを意味する。

⑵ 犬の門のエピソード
晏嬰は身長1m35mの小男であったが、楚に使節として訪れた時のことである。
楚は大門の横にあるくぐり戸に晏嬰を案内した。
晏嬰は、「犬が入る門で他国の使者を迎えるのは犬のすることであろう。自分は今日、使節として来た。楚は私をこの戸から入らせてよいのか」と叫んだ。
そこで楚の君主は恥じ入り大門を開いて晏嬰を入らせた、という。

⑶ 羊頭狗肉(ようとうくにく)の由来
斉の霊公(在位 BC582~554年)の時、町の女性の間で男装をすることが流行り、霊公はこれを止めさせたいと思って禁令を出した。しかし、もともとこの流行は霊公の妃(きさき)から始まったのであり、霊公は相変わらず妃には男装をさせていたので、流行は収まらなかった。
そこで晏嬰は「君のしている事は牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります」と諫言し、その通りにすると流行は収まった。このことが「牛頭馬肉」の言葉を生み、後に変化して故事成語の「羊頭狗肉」になった。

TOPページ

ページの先頭へ