高野白山の九州易占塾

徒然の記

ブラ高野~阿波十郎兵衛屋敷

阿波十郎兵衛屋敷は、人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」に登場する板東十郎兵衛の屋敷跡ですが、現在は、記念館として展示だけではなく、舞台実演が毎日おこなわれています。
「傾城阿波の鳴門」では、欲に目がくらんで実の娘とは知らず巡礼を殺して金品を強奪する板東十郎兵衛は、史実では阿波藩の悪事を一身に背負って処刑された忠義に厚い武士でした。
人形浄瑠璃を見ると、人間の情念、人生の因果をテーマにした真実性の荘厳さに心をうたれますが、これが歌舞伎になると、なぜかわかりませんが、炭酸の入っていないサイダーのように間が抜けたようになります。
十郎兵衛屋敷の舞台では、悲しみや喜びの所作を表現する操作法も見学でき、奥深い人形劇の世界に親しむことができます。

阿波十郎兵衛屋敷玄関
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お弓とお鶴、十郎兵衛
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薩摩のすてがまり

西暦1600年、関ヶ原の戦い終盤、島津勢は、すてがまりという戦法で退却戦に突入します。
すてがまりは、数人のしんがりが退路にあぐらをかいて座ったまま、火縄銃で敵を狙い撃ちしながら一時的に追撃を止めます。
これを何組も繰り返し、本隊を逃がしたあと、置き去りになったしんがりは、皆殺しになるという過酷な退却法です。
西軍の敗北濃厚、敵中に孤立した島津義弘は、当時66歳の高齢、足弱のため背後の急峻な伊吹山系を登ることができず、なこよか、ひっとべ(泣くより、ひっ跳べ)という諺のとおり、前面の東軍に向かって敵中突破を決意します。
火縄銃の一斉射撃のあと、わずか300人程度に減った島津勢が突撃してきたため、驚いたのは、東軍将兵です。
勝利が確定した10万人近い東軍の後詰は、事態が把握できず、この瞬間関ヶ原全体に空白の時間が流れたはずです。
眼の前を遁走する島津勢を一呼吸おいて見送る徳川軍が追撃戦を開始したのは、島津勢が伊勢街道を南下し始め、気が緩んだ頃でしょうか。
しかしながら、すてがまりの効果絶大、手勢の80人とともに島津義弘は生き残り無事薩摩に帰還できたものの、当初関ヶ原に参集したのは1,000人以上、生還率が8%に満たないという壮絶な敗戦でした。
島津家中の子孫共は、日本列島最大の内戦である明治維新を戦い抜き、関ヶ原の戦いから268年後リベンジを完了しました。

ブラ高野~福岡市文学館

福岡市中央区西中島橋たもとにある福岡市文学館は、明治42年辰野片岡建築事務所が設計、竣工しました。
この建物は、赤煉瓦文化館とも言われています。
外観の赤煉瓦、白い花崗岩の帯、ドームや小さな塔は、19世紀英国の建築様式をまねているようですが、メンテナンスも十分で立派なものです。
昭和44年、国の重要文化財に指定されたことから、福岡市が旧日本生命保険株式会社から譲り受け、現在は、福岡市に関係のある文学者を紹介する展示施設となっています。

玄関
福岡市赤レンガ文化館入り口

全景
福岡市赤煉瓦文化館 本体

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