高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

占いの心構え

占いにあたっての心構えは、以下のとおりです。

1 常識で判断できる問題を占ってはいけない。

2 同じテーマで2回占ってはいけない。ただし、占い結果の有効期間である1年間を過ぎれば、同じテーマで占ってさしつかえない。また、同じテーマでなければ1日に何回占ってもかまわない。

3 特に易経は、倫理的性格が強いため、ギャンブルの勝負予想など正義に反するテーマを占ってはいけない。また、日常生活でも、あさましい、恥ずべき行いをしてはならない。

4 占いは、個人情報を明らかにするので、占いの目的を明らかにしなければならない。単なる好奇心で占ってはいけない。

5 抽象的な問題を絞り込み、日時、期限、場所等を決めてテーマに入れなくてはならない。

6 占いの結果は、占った日付、テーマ、結果など必ず記録しなくてはならない。

ブラ高野シリーズ~西郷隆盛

西郷隆盛の銅像が東京都台東区の上野公園に立っています。

上野公園は、彰義隊と官軍の激戦があった場所で、彰義隊隊士の墓所が銅像の背後にあります。

西郷隆盛は、イメージとは真逆で、細かい計算を好む人で、戊辰戦争では前線からの食糧、弾薬、兵士の要求に、ふところから小さなソロバンを出して計算し査定していました。

晩年は、聖者、隠者の風格を持ちましたが、この印象は、薩摩若者組の頭領として必死になって自分を変えていき、つくり上げたものであると思っています。

そのうち、普通であれば、気性の激しい自分がほんとうなのか、茫洋としてとらえどころのない自分がほんとうなのかわからなくなるものですが、この人はとまどったようなフシがありません。

大隈重信は、その外面を見て、「あれは、一種の阿呆であろう」と理解していました。

姓名判断をしてみると、
一生を支配する運勢は、「破壊滅亡の兆大凶受難の意短命の暗示」
持って生まれた宿命は、「意外の変事あり生命財産を失う」
と出ました。

上野公園銅像(上野公園)
西郷さん

 

 

占いと直観

フロイトは、1856年生まれ、オ―ストリアの精神科医、精神分析学者です。

フロイトの無意識理論では、心理モデルとして意識世界と無意識世界を想定していますが、意識世界に含まれる前意識世界は、単に忘れている記憶なので、容易に思い出すことができ、問題ありません。

フロイトの治療ターゲットは、同じ記憶でも無意識世界に追いやられている、思い出すことさえ困難な、消された記憶です

日常では、患者自身も思い出すことができないので、フロイトは、深い心理の底に潜んでいる、消された記憶の部分に働きかけ、思い出させ、意識世界に呼び戻し、認識・理解させ、現実と対峙させることで、症状を改善させる手法を開発しました。

そこで、フロイトの理論を応用して、無意識世界の本能の中には、欲望と高等な精神を司る直観があるという仮説を立てます。

ユング理論で言えば、元型という概念に相当する直観は、欲望の下にひっそりと隠れているため、人間は直観を明確な言語に変換して表現することができません。

占いの効用は、いきなり直観と思われるものを引き出して、行動の正しい指針を教示することですが、欲望にとらわれた場合はまず100%当たりません。また解釈を間違えて誤った方向へ進むことを考えると、占いの最大の障害は、浅ましい行為のもとである欲望であることがわかります。

ブラ高野シリーズ~源義朝

西暦1160年、平治の乱に敗れた源義朝公は、小舟に隠れながら伊勢湾を渡り、対岸知多半島の野間(愛知県美浜町)に逃れました。

家人筋の長田忠致を頼ったものの、入浴中に襲撃され、襲撃者に立ち向かおうにも刀もなく、惨殺されました。

後日、長田忠致、景致父子は、源頼朝にとらえられた挙句、磔にされ、射殺されたといいます。

辞世の句は、でき過ぎなので後世の作と思われますが、ご紹介しましょう。

「ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまわり」

意味は、
「源義朝を討ちとって自分は壱岐守に任官することができ、もっと命ながらえたいと思うものの、頼朝から美濃と尾張を下されると欺かれ、今ほんとうに、身の終わり、を賜ってしまった」

語呂合わせは、以下のようになっています。
壱岐→生き
美濃尾張→身の終わり

長田屋敷跡
長田屋敷

磔の松
磔の松

磔の松看板
磔の松看板

平家物語の占断例

平家物語は、信濃前司(今でいえば前長野県知事)藤原行長と正仏という盲目の琵琶法師により創られた語り物です。

人形浄瑠璃にしろ平家物語にしろ、読ませるのではなく、語りを聴かせるという珍しい形式が日本文学の一大特色となっています。

屋島の戦い(高松市屋島)は、平家がわずか300騎の源氏に敗れ海上を逃亡し、全国の武士に見捨てられ、平家滅亡の遠因となった戦闘です。

なぜ平家が充分な戦闘もせず逃亡したのか、その謎は占いにあります。

平家物語巻十一「那須與一の事」では、那須與一が鏑矢で平家の扇を射ち落すシーンが次のように描かれています。

「與一、鏑(かぶら)を取ってつがい、よっぴいてひょうと放つ。・・・・・・鏑は海へ入りければ、扇は空へと上りける。しばしば虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。皆紅(みなくれない)の扇の、夕日にかがやくに、白波の上に漂い、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家ふなばたを叩いて感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)を叩いてどよめきけり。」

現代の日本人が読んでも、眼に見えるような美しい情景を描いた、わかりやすい名文です。

平家の総大将である平宗盛は、厳島神社に祈願を込めた扇を源氏が射損じれば、ご神意は、平家にあると考えていましたが、那須與一という無名の若者が見事に扇を射抜き、これにより、合戦に見切りをつけ、はるか下関彦島へ去っていきました。

船の竿に扇をかかげたのは、みやびな遊びというわけではなく、実は戦闘の勝敗について平家の守護神である厳島神社のご神意を伺う占いだったのです。

また、平家物語は、「壇の浦合戦の事」で熊野三山、熊野水軍の大将である熊野別当湛増による占いも書いています。

ご神前で、七匹の白いシャモと七匹の赤いシャモを勝負させて、白いシャモが総勝ちしたので、熊野別当湛増は源氏へ味方することを決めました。

平家物語の原文は、以下のとおりです。

「熊野別当湛増は、白き鷄七つ、赤き鷄七つ、これを以て権現の御前にて、勝負をさせけるに、赤き鷄一つも勝たず、皆負けてぞ逃げにける。さてこそ源氏へ参らんとは思い定めけれ。」

ブラ高野シリーズ~夜宮の大珪化木

昭和15年、北九州市戸畑区夜宮の戸畑高校近くで巨大な珪化木が発見保存され、現地に残っています。

珪化木は、太古の大木が長い時間をかけて、化石になったものです。

夜宮の大珪化木は、国の天然記念物で、長さは推定40m、最大幅2.2mで国内最大級の大きさ、化石というより岩のようになっています。

現在の北九州一帯は、当時は、少なく見積もっても高さ40m級の巨木が茂る大森林地帯であったことを証明しています。

アンモナイトや恐竜が姿を消したのが6500万年前、花をつける被子植物が出現したのは1億5000万年前、これは、3500万年前に生存した広葉樹の化石だそうですが、太古の時代を知らない素人の想像力が及ぶ範囲がせいぜい新石器時代(8000年前)までとしても、ピンとこないくらいの時間の長さです。

なんだか楽しくなり、ロマンをかきたてられる存在です。

目印の看板
桂化木案内

保存施設
桂化木全体

大珪化木
桂化木

 

 

白い戦慄

柴田錬三郎氏の小説に「白い戦慄」(集英社文庫~地獄の館)というタイトルの短編があります。

昭和11年、柳田重三は、北海道屈指の炭鉱町にあるK校へ学校教員として赴任しましたが、ある夜、宿直をしていると、部屋のドアがドンドンと鳴ったり、何人かで歩き回る、引き摺るような足音を聞きます。

以来、何回も同じことが起こり、時には、真夜中でありながらトイレの方からがやがやという人の声もします。

何かある、と思った柳田重三は、札幌で調査した結果、驚くべき無慚な事件を見つけ出します。

この短編で注目すべきは、逃れられない男女の宿命というテーマより、主人公の柳田重三が調べ上げた北海道における囚人労働の実態です。

明治14年、北海道に樺戸集治監が設置されましたが、全国から集められた囚人は、零下40度の酷寒、あるいは疫病がはやる酷暑で、寝具は、土間にムシロとせんべいふとんが1枚、労働時間は、ほとんど休憩なしの1日18時間、食事は、1食がどんぶり飯1杯に塩鱒1切れ、夜食は、ワカメかキリボシダイコンの味噌汁1杯で、重労働を強制されました。

また、巨木の上に囚人を追い上げ、人間の重さを利用して木を切り倒し、手錠や足かせをつけられているため、圧死、骨折は日常茶飯事、脚気や感染症で働けなくなると、生き埋めにされたそうです。

逃亡があとをたちませんが、逃亡者は、その場で斬殺されます。

物語のクライマックスは、学校トイレ敷地の地下深く埋められた16人分の遺骨が発掘されるシーンです。

北海道の開発は、残酷な囚人労働によるものであったことがわかります

ブラ高野シリーズ~大濠公園

福岡市の中央部にある大濠公園は、総面積約40万㎡、周囲2kmの公園です。

公園内に大きな池があるのが特徴で、ボート遊びをしたり、池の周囲を散歩したり、ジョギングにも最適です。

舞鶴公園や西公園とともに花見の名所でもあり、春になるとライトアップされた夜桜がとりわけ妖艶な美しさを見せます。

冬には、カモ、サギなどの渡り鳥が飛来するため、バードウォッチングの専門家が訪れ、ときには、白鳥が泳ぐ姿を見ることもできます。

大濠公園は、もともと初代藩主の黒田長政公が福岡城の外堀として縄張りした土地でしたが、大正15年、東大の先生が中国浙江省杭州市にある西湖を参考に設計して、公園としてよみがえリました。

池の中央には朱塗りの浮見堂という休憩所があり、景観のワンポイントとなっています。

今は、いい時期なので、スワンボートがのどかに浮かんでいます。

近隣は、福岡市美術館、アメリカ領事館、福岡城址など公共施設が目白押しで、高級マンションが立ち並ぶ福岡市内の一等地です。

大濠公園入口
大濠公園入口

浮見堂(遠景)
浮見堂(遠景)

浮見堂(近景)
浮見堂(近景)

スワンボート
スワンボート

 

真実と虚構

司馬遼太郎先生によると、真実というのは、虚構なしには表現できないそうです。

といっても、意味不明ですが、私なりに解釈すると、壮大な虚構を書き連らねれば、真実に肉迫することができるということになるのでしょうか。

ユダヤ教の聖典である旧約聖書の創世記第二章(日本聖書協会発行)に次の記述があります。

「主なる神が地と天を造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし、地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。主なる神は、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」

大虚構を堂々と書くと不思議に真実味をおびてくるという事例で、この部分がもし本当なら、イエスの復活など当たり前、理解可能となります。

法華経観世音菩薩普門品には次のような詩句があります。

「たとえ、悪意を持った者から巨大な火の穴に突き落とされても、かの観音の力を念ずれば、火の穴は池となるであろう。
あるいは、広大な海を漂流して竜や魚や怪物に襲われても、かの観音の力を念ずれば、波浪の下に沈むことはない。
あるいは、須弥山の峯から突き落とされても、かの観音の力を念ずれば、太陽のように虚空に止まることができるのだ。」

虚構もここまでくれば見事というほかないわけで、読んでいくうちに、何となく納得して、これはほんとうのことか、とつい思ってしまうのはなぜでしょうか。

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