高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

平家物語の占断例

平家物語は、信濃前司(今でいえば前長野県知事)藤原行長と正仏という盲目の琵琶法師により創られた語り物です。

人形浄瑠璃にしろ平家物語にしろ、読ませるのではなく、語りを聴かせるという珍しい形式が日本文学の一大特色となっています。

屋島の戦い(高松市屋島)は、平家がわずか300騎の源氏に敗れ海上を逃亡し、全国の武士に見捨てられ、平家滅亡の遠因となった戦闘です。

なぜ平家が充分な戦闘もせず逃亡したのか、その謎は占いにあります。

平家物語巻十一「那須與一の事」では、那須與一が鏑矢で平家の扇を射ち落すシーンが次のように描かれています。

「與一、鏑(かぶら)を取ってつがい、よっぴいてひょうと放つ。・・・・・・鏑は海へ入りければ、扇は空へと上りける。しばしば虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。皆紅(みなくれない)の扇の、夕日にかがやくに、白波の上に漂い、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家ふなばたを叩いて感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)を叩いてどよめきけり。」

現代の日本人が読んでも、眼に見えるような美しい情景を描いた、わかりやすい名文です。

平家の総大将である平宗盛は、厳島神社に祈願を込めた扇を源氏が射損じれば、ご神意は、平家にあると考えていましたが、那須與一という無名の若者が見事に扇を射抜き、これにより、合戦に見切りをつけ、はるか下関彦島へ去っていきました。

船の竿に扇をかかげたのは、みやびな遊びというわけではなく、実は戦闘の勝敗について平家の守護神である厳島神社のご神意を伺う占いだったのです。

また、平家物語は、「壇の浦合戦の事」で熊野三山、熊野水軍の大将である熊野別当湛増による占いも書いています。

ご神前で、七匹の白いシャモと七匹の赤いシャモを勝負させて、白いシャモが総勝ちしたので、熊野別当湛増は源氏へ味方することを決めました。

平家物語の原文は、以下のとおりです。

「熊野別当湛増は、白き鷄七つ、赤き鷄七つ、これを以て権現の御前にて、勝負をさせけるに、赤き鷄一つも勝たず、皆負けてぞ逃げにける。さてこそ源氏へ参らんとは思い定めけれ。」

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