高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

中国大陸黄土地帯の様相 その3~虐殺の王朝

下記は、秦の捕虜二十万人を虐殺したときの項羽と部下の黥布(げいふ)らの様子を史記の項羽本紀(こううほんぎ)から抜粋したものである。
司馬遷は、「新安城の南に阬(あな)にす」と大虐殺事件をさらりと書いている。
原文では「阬(あな)にす」となっているが、殺し方は穴埋めにしたのではなく、武器を持たない捕虜集団を夜襲して深い谷底へ突き落した、とみれば二十万人が百万人でも話は簡単である。当時でもこの殺害方法は例がなく独創的であったためか、該当する概念、単語がなかったので、司馬遷はまとめて「阬(あな)にす」と書いたのであろう。
「阬(こう)」とは穴埋めにする、という意味であるが、黄土谷を知らずに文字通り穴を掘って埋めた、と受け取ると人力だけで二十万人分の巨大な穴を掘れないので、ネット情報のように虐殺人数が七~八万人という誤った見方になる。
凸凹した谷間が続いている、という黄土地帯の地形を利用した項羽の大量殺人法に比べると、ナチスドイツは、数百人単位でユダヤ人をガス室で殺害したものの、遺体を焼却炉で焼いて処理した。

史記:
「章将軍等、我が属を偽りて諸侯に下れり。今善く関に入り秦を破らば、大いに善し。即(も)し能(あた)わずんば、諸侯、吾が属を虜(とりこ)にして東し、秦、必ず尽(ことごと)く吾が父母妻子を誅(ちゅう)せん」と。
諸将、密(ひそ)かに其の計を聞き、以って項羽に告ぐ。項羽、乃(すなわ)ち黥布(げいふ)・蒲(ほ)将軍を召して、計(はか)りて曰(いわ)く「秦の吏卒尚(な) お衆(おお)く、其の心、復せず。関中(かんちゅう)に至りて聴(き)かずんば、事、必ず危(あや)うからん。これを撃殺(げきさつ)して、独(ひと)り章邯(しょうかん)・長吏(ちょうし)の欣(きん)・都尉(とい)の翳(えい)と与(とも)に秦に入るに如かず」と。是(ここ)に於いて、楚の軍、夜撃(う)ちて、秦の卒二十余万人を新安城の南に阬(あな)にす」

高野白山訳
「章将軍らは、私たちをだまして諸侯の軍に降伏してしまった。もし函谷関(かんこくかん)から攻め入って、秦を討ち破ればおおいによろしいが、もし秦に勝てなかったら、諸侯はわれらを捕虜として東に連れ去るだろう。そうなれば、秦は必ずわれらの父母妻子を皆殺しにするに違いない」
項羽の諸将は、秦の士卒の密談を密かに盗み聞き、項羽に報告した。項羽は、黥布(げいふ)と蒲(ほ)将軍を呼んで、相談して言った。
「秦の士卒は、降伏したとは言え、人数は多く、心から帰服しているわけでもない。関中に攻め入ってから反抗されたのでは、必ずや危険な事態になるであろう。むしろ今のうちに皆殺しにして、将軍の章邯(しょうかん)、副将の司馬欣(しばきん)、都尉の董翳(とうえい)だけを助けて、秦に入った方がましだ」
こうして楚軍は夜襲をかけて、降伏した秦の兵卒二十余万人を新安城の南で阬(あな)にして殺した。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著) 目次~高祖本紀 320頁抜粋

 

ブラ高野~福ふく整骨院

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私は一年近く治療を受けたが、腰痛や膝の痛みが軽くなり、体重も3kg減、血圧は正常値を示し体調良好である。

千客万来の整骨院

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中国大陸黄土地帯の様相 その2~地形

細く長い日本列島では、東西南北に比較的に人間が動きやすいが、黄土による断崖や段丘、また大河、大山脈にさえぎられた中国大陸では、過酷な自然により移動自体が困難であった。黄河流域に広がる黄土に覆われた大地の有様を司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」から紹介しよう。

項羽と劉邦:
「現在の行政区でいえば山西省になる。ほぼ全体が黄土高原をなし、いくつかの山脈が南北に並行し、山も谷も黄土層をもってあつくおおわれており、樹木もすくない。そのなかを北から南へ高原を切り裂くように汾河(ふんが)が流れている。汾河の両側は黒っぽい断崖、灰色の段丘が多く、ときに水流が大きく地をひろげてひとびとに耕地をつくらせており、韓信とその軍が通って行った道路というのは、その汾河河谷(かこく)ぞいに延びている。地名でいえば、曲沃(きょくよく)、平陽(へいよう)(現在、臨汾、介休をへて楡次(ゆじ、太原市の南方)を通り、この楡次のあたりから道がはじめて東する。黄土高原は次第に降りになり、やがて河北平野がひらけ、現在の地名でいえば、石家荘市あたりに出る。
ただ、河北平野へ出る行路は最後の難所というべきところで、道のゆくてには、南からつづいている太行(たいこう)山脈の北端がさえぎっている。
そのあたりの地形はじつに奇怪であった。
天が包丁をもって山地を縦横にきざんだように細長い谷ができている。それが自然の切通しや道路になっているのだが、そのほとんどは人馬が二列になって通ることができず、一列でもって長蛇の列をつくらなければならない。このあたりでそういう自然道のことを陘(けい)と呼んでいる。
そのなかでも、井陘(せいけい)という自然道が有名で、韓信軍が河北平野に出るにはこの井陘の道を通らなければならない。平野に出る手前に、古来、関門があった。土門関といい、井陘口(せいけいこう)とも呼ばれた。
「井陘口さえ扼(やく)すればどういう大敵でもふせげうる」と、古い時代からいわれていた」

ブラ高野~金色のモニュメント

福岡ダイヤモンドビル(福岡市中央区天神)前の金色のモニュメントは、無名でありながら、さりげなく、しかし圧倒的な存在感を持ったインパクトがあり、街角のアクセントにふさわしい空間を演出している、優れた造形物である。
福岡の新しい待ち合わせの場所となりそうな予感もある。
この作品は、設計は、株式会社オーケストラ、第8回福岡市都市景観賞を受賞した。

金色のモニュメント

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