高野白山の九州易占塾

徒然の記

易とは何か その4~乾と坤の違いについて

○乾と坤の違い
生成の限りない連続を易という。万物生成のはじめに、その形をつくる働きを乾(けん)といい、これを受けて一定の定めをもった形を提示する働きを坤(こん)という。数字を極め尽くし、未来を予知する手段を占(せん)といい、占(せん)により変化に通じる行為を事行(じこう)という。予測できない陰陽変化、これが神すなわち神秘性である。

○書き下し文
生生(せいせい)これを易と謂(い)い、象(しょう)を成す、これを乾(けん)と謂(い)い、法を效(いた)す、これを坤(こん)と謂う。数を極(きわ)め来(らい)を知るこれを占(せん)と謂い、変に通ずることを事(じ)と謂い、陰陽測(はか)られざる、これを神(しん)と謂う。

ブラ高野~キャナルシティ博多

キャナルシティ博多は、福岡市博多区の商業施設で1996年4月に開業しました。
英語で運河を意味する「キャナル (canal) 」の名称のように、地下1階には擬似運河が流れています。
この施設を見ていると、商業施設は品物ではなく夢を買う場所ということが納得できます。
運河沿いのステージでは毎日のようにマジックショーなどの様々なイベントが行われており、週末を中心に音楽ライブや地元テレビ局の番組収録なども頻繁にあります。

キャナルシティ博多

擬似運河

易とは何か その3~吉凶悔吝咎めなしの詳細について


○吉凶悔吝咎めなしの詳細
吉と凶は、結果の成就(じょうじゅ)と失敗を言い、悔(かい)と吝(りん)は、吉凶ほど決定的ではないにしろ小さな疵(きず)を言うのであり、咎(とが)めなしとは、過失を改めることにより良い方向へ事態が進み、咎めをまぬがれることを意味する。

○書き下し文
吉凶とはその失得(しっとく)を言うなり。悔吝(かいりん)とはその小疵(しょうし) を言うなり。咎(とが)なしとは善く過(あやまち)を補(おぎな)うなり。

ブラ高野~猫町倶楽部福岡

猫町倶楽部は、2006年に名古屋でスタートして以来、全国で延べ5000人が参加している読書会です。
指定の課題本を読了すれば参加できます。
入会も退会も自由気まま、読書会の現場では活発な、しかし深みのあるディスカッションが続きます。
最近の面白い課題本は、文化の多様性やいじめの本質などに鋭く切り込んだ、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ著)というエッセイでした。

ディスカッションたけなわ

猫町倶楽部福岡メンバー

 

易とは何か その2~吉凶悔吝の意味について


○吉凶悔吝の意味
聖人が卦をつくって、森羅万象(しんらばんしょう)の意義を観察し、その結果を書き表して、吉凶の道理を明確にした。
剛と柔は、互いに移り変わって変化を生じる。
吉とは事の成就(じょうじゅ)であり、凶とは失敗、悔(かい)は凶にいながら現状を反省して吉へ向かうことであり、吝(りん)は現状は吉であるが凶へ向かうという意味である。

○書き下し文
聖人卦を設けて象を観(しめ)し、辞を繋(か)けて吉凶を明らかにす。剛柔相推(あいお)して変化生ず。この故に吉凶とは失得(しっとく)の象なり。悔吝(かいりん)とは憂虞(ゆうぐ)の象(しょう)なり。

ブラ高野~吉田磯吉邸跡

吉田磯吉(1867~1936)は、遠賀郡芦屋町出身、遠賀川石炭船の船頭から身を起こし、当時の若松魚市場や運輸関連企業の役員を務め、明治・大正・昭和と北九州の発展期を代表する人物でした。
火野葦平の小説「花と竜」に描かれる磯吉大親分とは吉田磯吉のことだそうです。
政治家としても民政党代議士として活躍し、昭和11年に70才で死去しました。
若松区の浜町小学校で行われた葬儀は、空前絶後の盛葬で、今となっては確認できませんが、2万名の参列者があったそうです。ほかに米1200俵、日本酒20樽、花輪1,000束が供えられたそうで、いかに市民に愛されたかわかります。

吉田磯吉邸跡記念碑

易とは何か その1~吉凶の生じる理由について 

孔子の門弟により書かれた、易経の解説書である十翼のうち、繋辞伝(けいじでん)では、吉凶や八卦の由来、易の効用をわかりやすく教えています。以下は、易経を理解するため、繋辞伝から抜き出したエッセンスです。

○吉凶の生じる理由
天は高く、地は低いという事実を踏まえて、乾(けん)と坤(こん)が定められている。万物が高く、あるいは低くつらなる事実にならって、動と静、剛と柔に区分されるのである。

万物は、また善悪の性質ごとに集まったり、種類ごとに分かれることにより、吉と凶を生じるのである。
天では日月星辰(にちげつせいしん)の現象、地では山川草木(さんせんそうもく)の形象となって現れることにより陰が陽になったり、陽が陰に分かれるという変化が表れるのである。

○書き下し文
天は、尊(たか)く、地は、卑(ひく)くして、乾坤(けんこん)定まる。 卑高(ひこう)もって、つらなり、貴賤(きせん)位(くらい)す。 動、静、常ありて、剛、柔、わ かる。

方は類をもって聚(あつ)まり、物(ぶつ)は群をもって分かれて、吉凶生ず。天に在りては象(しょう)を成し、地に在りては、形(けい)を成して、変化あらわる。

ブラ高野~着衣の横たわる母と子

博多駅の博多口にイギリスの彫刻家ヘンリー・ムーアの「着衣の横たわる母と子」という彫刻が設置されています。
母の慈愛と子供の優しさを象徴するような曲線美あふれた作品です。
「母と子」をテーマにしてヘンリームーアは多くの作品を残していますが、博多駅前の作品もその一つです。
彫刻の下に、これは福岡市政100周年を記念し、市民の浄財によって設置されたという趣旨の案内板がたっています。

着衣の横たわる母と子

鎮魂の平家物語~「耳なし芳一のはなし」から

琵琶(びわ)という楽器は、今から約1300年前、中央アジアを貫通するシルクロードを通って中国大陸経由で日本へ伝来したといいますが、この地では琵琶法師と呼ばれた吟遊詩人が平家物語や仏教説話に節(ふし)をつけて語る時に伴奏楽器として利用されました。

琵琶のエピソードと言えば、ラフカディオ・ハーンが創作した話の中で耳なし芳一は、平家物語を語りながら琵琶を打ち鳴らし、ご幼少であらせられた安徳天皇、建礼門院をはじめとして、壇ノ浦で滅亡した平家一門を鎮魂したのは、敗北した人々の魂を崇め奉りタタリを封印し、善神へ転換するための怨霊信仰(おんりょうしんこう)と言葉が超自然的なパワーを持つという言霊信仰(ことだましんこう)の事例といっていいでしょう。

平家物語はなぜ書かれたのか?滅亡した平家一門を鎮魂するためである、という井沢元彦先生の主張は強い説得力を持っています。

生き方を探る仏教やキリスト教、天地の清らかさを追求する神道さえ社会の上部構造であり、日本列島の土俗文化といっていいほど強烈な怨霊信仰や言霊信仰をバックボーンに、ラフカディオ・ハーンは、敗者へのいたわりを「耳なし芳一のはなし」という短編でわかりやすく描いています。
確固とした経典があるわけでもないのに、キリスト教文明圏で生まれ育ったヨーロッパ人になぜ怨霊信仰が理解できたのか不思議でなりません。

芳一が武者どもの奮戦ぶりを褒めたたえて、平家の怨霊を供養する下りを「耳なし芳一のはなし」から抜粋してご紹介しましょう。
※          ※          ※            ※
『なかなか全部を、かたるわけにはまいりませんが、どの段をかたれと、ご所望でございましょうか』
「女の声がこたえた」
『壇ノ浦の合戦のくだりをかたるようにーそこがひとしお、哀れの深いところでありまするから』
「そこで芳一は、声を張りあげて、悲痛な船いくさのくだりをうたったー櫂をあやつる音、船のつきすすむ音、風を切って飛ぶ矢の音、人びとのおたけびや足を踏みならす音、甲冑に太刀のぶちあたる音、斬られて海中に落ちる音など、驚くほどたくみに、琵琶をひき鳴らした。すると弾奏のあいまあいまに、左右でささやく、賞賛の声が聞こえた。
『なんというすばらしい琵琶法師であろう』
『国許では、こんな琵琶は聞いたことがない!』
『日本ひろしといえども、芳一ほどのうたい手はまたとあるまい!』
すると、あらたな力が湧きおこり、芳一はますますたくみに、弾き、かつかたりつづけた。
そして、感嘆のあまり、あたりはひっそり静まりかえった」
(小泉八雲集 上田和夫訳)

暦を読み解く その8~十方暮れ

十方暮れ(じっぽうぐれ)は、六十干支のうち、21番目の甲申(きのえさる)から30番目の癸巳(みずのとみ)までの10日間を天地相剋(てんちそうこく)して、万事うまく行かない凶日として設定したものです。
労して功の少ない日とされています。
根拠は明白ですが、吉凶なしとはいうものの、相生(そうしょう)の吉日や比和(ひわ)の日も間日(まび)として含まれているため、正当性は薄弱といわねばなりません。

TOPページ

ページの先頭へ