NPO法人九州易学開運学院

徒然の記

立春への疑問 その1

九星気学による運勢判定の1年間は、立春(ほぼ2月4日)から始まり翌年の2月3日までであるが、立春とはよく聞くものの、春が始まるのになぜ寒いのか、わかったようで明確に説明できない概念である。本資料は、立春の概念を調査した結果報告である。
真冬の真只中なのになぜ立春というのか。太陰暦は、なぜ季節感がずれているのか。
忠臣蔵の討ち入りは、太陰暦で12月14日(西暦1703年)であるが、現在の太陽暦では1月30日となり、300年前とは約1月半のずれがある。
易経の19番目である地澤臨の8月は、太陽暦換算で9月か10月である。
地澤臨
臨は、元いに亨りて貞しきに利ろし。八月に至れば凶有らん。

太陰暦の基礎的な仕組みは次の通りである。
(1) キーワード
太陰とは、月のことをいう。
太陰暦は、月の満ち欠けを基につくられた暦であるが、太陰暦を理解するキーワードは、月の満ち欠けが一巡する29.5日という数字と朔(さく)、望(ぼう)、晦(つごもり)という闇夜や月夜を意味する名称である。
太陰暦では、毎月の初日は全く月が見えず、月の見えないこの状態を朔(さく)といい、
毎月の1日を「朔日」とも呼び、八朔といえば、8月1日のことを指しているが、八朔という夏ミカンの名称は太陰暦に由来しているのである。
快晴の夜でも月が見えない日を毎月の1日と設定するのである。
この時の見えない月をなぜか「新月」というものの、ネオンサインはおろか電灯もない時代は深い闇に包まれたまま真っ暗な長い夜が続いた。
明智光秀が織田信長を討ち取った本能寺の変は、天正10年6月1日(西暦1582年6月20日)の夜であった。
この日は太陰暦の1日なので、新月すなわち月がない闇夜であった、暗殺の計画性は歴然としていたのである。

月の運行を見ると、満月になるまで15日間かかるので、満月が出る日を毎月の15日に設定する。
夜空を見上げて、満月が出ていると、この日は、太陰暦でいうと必ず15日になる。夜は、中天に輝く月が煌々と光を放ち周囲を真昼のように明るくするが、この明るい夜を招く満月の状態を望(ぼう)という。
日本の行方を決定し、世界史にも影響した関ヶ原の戦いー日本年号の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の夜は、雨や曇りでなければ、15日なので日本各地で満月が出ていたことがわかる。もっとも関ヶ原周辺は、夕方から雨模様だったようである。
晦(つごもり、かい)は、くらます、わかりにくい、という意味である。
月末(30日か29日)になれば、月は再度見えなくなる。これを晦(つごもり)といいまたは、みそかとも読むが、今でも年の終わり12月の31日を大晦日(おおみそか、おおつごもり)というのは、太陰暦の名残りである。
(立春への疑問 その2へ続く)

ブラ高野~南瓜

福岡市美術館所蔵の南瓜は、造形作家の草間 彌生(くさま やよい、1929年生まれ)の作品である。
この人は、総合失調症で幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、絵を書き始めた、という。
かつては前衛の女王とも呼ばれていた。
南瓜をモチーフにした作品も数多い。

南瓜(福岡市美術館所蔵)

八朔とは

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日を意味している。
新暦も旧暦も峻別せずに使うため、テレビニュースでは今日の新暦8月1日が八朔である、と謝って伝えるのである。
新暦では八朔は毎年8月25日頃から9月23日頃までを移動するが、令和5年では9月15日が八朔となる。

また八朔は、ある種のみかんの名称でもある。江戸時代に広島県で見された品種だそうである。

ブラ高野~福岡城の潮見櫓

福岡城下之橋御門の南側に二層の櫓(やぐら)が建っているが、これが、福岡県指定の福岡城潮見櫓である。
潮見櫓は、昔は福岡城の北西角(福岡城の西端角の土塁の内側)にあり、遠く玄界灘、博多湾の形勢を望み、海上からの防禦を担っていた、という。

潮見櫓

高島呑象の天才性 その7~巡洋艦畝傍(うねび)の行方

ア 巡洋艦畝傍主要要目
○排水量~3,615トン
○長さ~98m
○速力~18.5ノット
○艦種~巡洋艦
○兵装~24センチ砲4門等

イ エピソード紹介の趣旨
このエピソードは、どんな天才的な人物でも誤占は避けられないことを表している。占いは100%的中することはあり得ないので占者は1%のミスを覚悟せねばならない。

ウ 状況
畝傍(うねび)は、日清戦争に向けて旧日本海軍がフランスに発注した巡洋艦である。1886年(明治19年)10月に完成、日本に回航される途中、12月3日シンガポール出発後、消息不明となった。
90名を超える乗客乗員は未だに発見されていない。

呑象先生が軍の依頼を受けて、巡洋艦畝傍(うねび)の行方について占ったところ、地水師の四爻であった。

エ 結果~地水師の四爻
師は、正しくなければならない。実力のある司令官に率いれられれば吉で問題ない。
四爻
進み難きを知って退く。この兵法の常道を守れば、咎めを免れる。
※師は師団の師、すなわち戦争のこと。丈人は器の大きな人。

オ 解釈
呑象先生は、「師左き次る。咎なし。」すなわち、左き次る(しりぞき やどる)は軍営を退くこと、咎なし(とがなし)は欠点はあっても咎められることはないという意味であるが、畝傍は戦場を退いて休息している状態であり、目下航路の外に退いて休泊している、とみることができる、また咎なし、とあるので、これは艦を修繕しつつ、いずれかの地に停泊している、と解釈したのである。

カ 結末
この占断は、社会に広がり国民が期待したものの、ついに畝傍は姿を見せることはなかった。政府は畝傍沈没と決定し、遺族に救恤金(きゅうじゅつきん、見舞金)をおくった。これは易聖と呼ばれた高島呑象先生さえはずれることがあるため、全面的に占いに依存するこ

ブラ高野~睡蓮(スイレン)

名前も形も似ていると睡蓮と蓮(ハス)を見分けるのは、茎の長さである。
水面と花の距離が違うのである。
睡蓮は、ほぼ水面に花を開花させる。
一方蓮は、水面からほぼ1メートルのところに花を咲かせる。

また葉に光沢があり大きく切れ込みが入っていて水の上に浮いているのが睡蓮である。
葉が円形で、花と同じように水面から離れた距離があり表面にツヤがないのが蓮である。

睡蓮をモチーフにした絵画は、日本庭園を好んだクロード・モネの連作「睡蓮」がある。

花言葉は、清純。信仰、信頼

睡蓮の属性は、
科・属名~スイレン科スイレン属
原産地~熱帯地域から温帯地域
英名~Water Lily
開花~5月から10月
花の色~ピンク、白、黄、オレンジ

睡蓮(福岡城内)

高島呑象の天才性 その6~伊藤博文のハルピン暗殺を予知

ア 状況
伊藤博文がロシアと満州問題を協議するため、ハルビンへと向かう旅の前途を占ってみると、艮為山の三爻であった。
出張中止を進言した上で、「艮」あるいは「山」の字がつく人物を近づけないようアドバイスしたが、伊藤博文は、ハルピン駅プラットホームで3発の銃弾を受け、絶命した。
三爻では、じっとして、腰を動かさない。身体を屈伸することがなく、そのため背骨の裂けるような痛みがある。迫りくる危険が心を焦がす、とある。易経の予言通り、弾丸で背中が避けたのであろう。
暗殺犯の氏名は安重根という。
注目すべきは安重根という氏名のうち、根という文字である。根のつくりである艮は、艮為山の艮であり、さらに「重」という文字は、艮が重なっている有様、すなわち艮為山を表しているのである。

イ 結果~艮為山の三爻
艮為山の本卦
庭先に行っても会おうとしない。咎めなし。
三爻
じっとして、腰を動かさない。身体を屈伸することがなく、そのため背骨の裂けるような痛みがある。迫りくる危険が心を焦がす。

ブラ高野~福岡城の下之橋御門(しものはしごもん)

福岡城は、堀に架かる三つの橋、上之橋(かみのはし)、下之橋(しものはし)、追廻橋(おいまわしばし)にそれぞれ門があり、このうち下之橋を渡って入る門を下之橋御門という。
江戸に近い東の門は、上之橋御門、反対の西にある門が下之橋御門である。
この門は、2000年に不審火によって被災したため、調査復旧した結果、2020年に二層櫓門(にそうやぐらもん)として完成した。

下之橋御門

高島呑象の天才性 その5~日本海海戦の勝利を予言

ア 状況
日本海海戦(1905年5月27日~28日)の勝敗を占って、雷水解の上爻「公もって隼を高墉の上に射る。これを獲て利ろしからざるなし」と出たので、日本の勝利を新聞紙上で公表した。

イ 結果~雷水解の上爻
雷水解の本卦
西南の方向が利しい。問題なければ元のところに戻って吉。障害となることがあれば早く解決して吉
上爻
君主が高い城壁の上にとまっている隼を射落し、獲るので何事も順調である。

ブラ高野~福岡城の上之橋御門跡

福岡城の入り口は、上之橋御門・下之橋御門・追廻橋御門の三か所である。
このうち上之橋御門(かみのはしごもん)は、上之橋を渡るとすぐの場所、福岡城の大手門といっていいであろう。
大手門の名称は、今でも福岡市中央区の地名として海側一帯に残っている。
この門の二階は櫓(やぐら)形式であったが、第二次大戦の戦災で門ともども焼失した、という。

上之橋御門跡

上之橋

 

 

 

 

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