黒田藩では、西暦1784年(天明4年)、九代藩主黒田斉隆のとき、藩校が東西二ヶ所に設置され、そのうち福岡城そばに創建されたのが西学問所甘棠館(福岡市中央区)です。
館長亀井南冥は、朱子学は憶測の説であると批判し、経世済民思想を主軸とした徂徠学派の学者で、生徒の自主・自発の学習を重んじた、といいます。
西暦1798年(寛政10年)校舎が火事となった上、寛政異学の禁止令もあり廃館となったものの、藩士多数の人材を輩出し、その学風は、朱子学派の東学問所校修猷館(しゅうゆうかん)と対抗し、並び称されました。