高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

六変筮法(ろっぺんぜいほう) その2

⑴ 状況
崔杼が宲公(とうこう)の弔問に訪れた時、未亡人となったばかりの宲姜の美しさに驚き、家臣であり宲姜の弟であった東郭偃に仲を取り持つよう命じた。
しかし、東郭偃は難色を示した。
なぜなら崔杼と東郭偃・宲姜は斉の君主の血統をひく同族であったからである。
そこで宲姜を妻に迎えてよいか?というテーマで崔杼が易を立てると、「澤水困の澤風大過に之く」という結果が出た。

⑵ 解釈
澤水困六つの爻のうち、唯一「妻」について書いている三爻は、易経六十四卦三百八十四爻の中で最大凶である。
大夫(たいふ 貴族の位)の陳文子(ちんぶんし)は、澤水困の三爻について
「石に困しみ、蒺藜に拠る。その宮に入りて、その妻を見ず。凶なり、とあり石に苦しむとは、石に足をとられて川を渡るに渡れぬこと、蒺藜に拠るとはすがりついた菱の実のとげにも刺されること、そして、その宮に入りて、その妻を見ず。凶なり、とは帰る家もなくなる、ということです」といって婚姻を断念するようアドバイスしたのである。
しかし崔杼は強引に宲姜を妻に迎えた。
ちなみに、之卦(しか)の澤風大過で同じ三爻をみると、「家屋の棟木がたわむ、凶である」と崔杼家の崩壊を暗示して象徴的である。

⑶ 崔杼の弑逆(しいぎゃく)
崔杼が君主の荘公を殺したのは、荘公が夫人の宲姜と密通したからであるが、自宅に荘公光をおびき寄せ待ち伏せして殺したのである。
クーデターは成功し、崔杼は慶封と組んで政権を強奪した。
※弑逆(しいぎゃく)~臣下が主君を殺すこと

⑷ 結末
崔杼の前妻の子と宲姜の子を戦わせた慶封の謀略により、崔杼の一家は全滅した。
「その宮に入りて、その妻を見ず」と易経が予言したように、宲姜は自宅で首をつて死んだ。
それを見つけた崔杼も自殺したのである。

⑸ 史官の心意気~弑逆(しいぎゃく)の記録
崔杼が主君の荘公を殺した事件(BC548年)を太史(記録官)は、「崔杼その君を弑逆す」と書いたため殺害された。
その弟が太史の職を受け継ぎ、同じことを書いたのでやはり殺された。
次の弟も同じことを書いたが、三人目に至って崔杼は記録の抹殺を諦めこの弟は殺されなかった。
太史の二兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は今度は自分の番と思って「崔杼その君を弑逆す」と書いた竹簡を持って駆け付けたが、事実が記録されたと聞いて帰った。

 

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