高野白山の九州易占塾

徒然の記

ブラ高野~毛利豊前守勝永の鎧兜(よろいかぶと)

毛利豊前守勝永((1578年~1615年)は、安土桃山時代の大名で、豊臣家の家臣である。
関ヶ原の戦いでは西軍についたものの敗北、土佐の国に流刑となった。
1614年、毛利豊前守は、豊臣秀頼から招きを受け、土佐から脱出し、大坂城に入城した。
豊臣家の譜代ということもあり、諸将の信望を得て大坂城の五人衆といわれた。
豊臣家の興亡をかけた大坂の陣で奮戦し、徳川家康の本陣に突入するという活躍を見せた。このときも徳川家康は、一時は死を覚悟したらしい。
大阪夏の陣で毛利豊前守は秀頼御所の介錯を行った後、息子や弟とともに山里丸と称された櫓で自害したという。享年37歳

鎧兜の名称は、銀塗伊多懸威二枚道具足寫及び銀塗白糸威水牛兜という。
製作は、福岡県立香椎工業高等学校電子機械科の生徒七名である。

毛利豊前守勝永の鎧兜

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