高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

繋辞下伝(けいじかでん)~去(きょ)と来(らい)

去ることは消滅することではなく力を蓄えることであり、来るとは力を発揮することであると考えている繋辞下伝は、人生の応援歌でもあります。

「太陽が沈めば月が昇る。月が隠れれば太陽が昇る。日月が交代で推移することにより、自然の明るさが生じるのである。寒さが過ぎれば暑くなる、暑さが去れば寒くなる。暑さと寒さが互いに推移して1年が形成される。去るとは消滅ではなく、屈すること、すなわち身を縮めて力を蓄えることである。来るとは、伸びること、すなわち身を伸ばして力を発揮することである。屈と伸の交替・循環により、大きな効果が生じるのである」

○書き下し文
「日往けばすなわち月来り、月往けばすなわち日来り、日月相推して明生ず。寒往けばすなわち暑来り、暑往けばすなわち寒来り、寒暑相推して歳成る。往くとは屈するなり。来るとは信(の)ぶるなり。屈信相感じて利生ず」

ブラ高野~鴻臚館(こうろかん)

鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した施設で、9世紀に博多・大阪・京都の3ヶ所に置かれました。

2004年に国指定史跡となった博多の鴻臚館は、当初、筑紫館(つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期に唐の「鴻臚寺」にならって「鴻臚館」と名を改めました。
鴻臚寺の「寺」は役所のことで、鴻臚とは、賓客の来訪を大声で伝達するという意味だそうです。
当時、延長15~16km、側溝付き幅10m~20m程度の立派な直線道路が鴻臚館から太宰府まで通っていたそうです。

鴻臚館跡展示館には、建物跡や復元模型、大量に出土した焼物などの遺物が展示されています。
なかにはガラス製のコップやイスラム産の焼物といった西アジアの物も含まれており、この地は昔から海外交流が盛んであったことがわかります。

繋辞下伝~八卦の由来


八卦は誰がつくったのか、繋辞下伝では、次のように解き明かしています。
「むかし天下に王として君臨していた包犠氏は、上を仰いでは天体の現象を観測し、下を見ては大地の形状を観察し、鳥獣の模様や土地の有様を見て、また近い所では自分の身体を参考に、遠い所では、物のかたちを見て初めて八卦をつくったが、八卦により、天地神明の徳を反映させ、万物の情報を分類したのである」
八卦は、万物の情報を分類し、整理するため創られたのかと理解すると、シンクロ二シティ(偶然の一致)に思い当たるフシがあります。

○書き下し文
「古者(いにしえ)包犧(ほうぎ)氏の天下に王たるや、仰いですなわち象を天に観、俯してはすなわち法を地に観、鳥獸の文と地の宜とを観、近くはこれを身に取り、遠くはこれを物に取る。ここにおいて始めて八卦を作り、もって神明の徳を通じ、もって万物の情を類す」

ブラ高野~母里太兵衛(もりたへい)銅像

母里太兵衛(もりたへい)は、福岡藩黒田家の武将です。
福智山系につらなる、直方市にあった鷹取城城主、知行高は18,000石、槍術の使い手、黒田二十四騎の中でも特に重用された八虎の一人です。

筑前今様黒田節に謡われ、現在は福岡市博物館に所蔵されている名槍の日本号を福島正則から呑み獲ったエピソードで知られています。

「酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士」と有名な歌詞が銅像(博多駅博多口)の台座に刻まれています。

母里太兵衛銅像(博多駅博多口)

 

 

八卦と卦の構成、九星、五行の読み方と順番について

八卦と卦の構成、九星、五行の読み方と順番については、次のようになります。

⑴ 八卦の読みと順番
乾(けん)、兌(だ)、離(り)、震(しん)、巽(そん)、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)

⑵ 卦の構成
易経冒頭の乾為の卦は、けんかけんしょう(乾下乾上)、最後六十四番目の火水の卦は、かんかりしょう(坎下離上)、といいます。
上は、じょう、ではなく、しょう、と読みます。

⑶ 九星の読みと順番
一白水星(いっぱくすいせい)、二黒土星(じこくどせい)、三碧木星(さんぺきもくせい)、四緑木星(しろくもくせい)、五黄土星(ごうどせい)、六白金星(ろっぱくきんせい)、七赤金星(しちせききんせい)、八白土星(はっぱくどせい)、九紫火星(きゅうしかせい)

⑷ 五行の読みと順番
木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)
金は、きん、ではなく、ごん、と読みます。

ブラ高野~涅槃像

福岡県篠栗町の南蔵院にある、涅槃像の高さは11メートル、幅が41メートル、重さ300トン、ブロンズ製で世界一の大きさだそうですが、当然ながら心臓が上になるように右手で手枕をしています。

歴史上の釈迦は、体の弱い人で行(ぎょう)の途中で死にかけて逃げ出したり、修行の名目で、夏安居(げあんご)といって夏は出歩かずに暑さを避け、木陰に横たわって休息をしていたようです。
八正道(はっしょうどう)をもって正しく生きよ、と説いた聖者にとって熱帯インド亜大陸の気候は過酷であったに違いありません。

なお、法華経や浄土三部経をはじめとする大乗経典は、成立年代からみて釈迦とは全く無関係の教説であることは明白ですが、といってその価値を減ずるものではありません。

涅槃像

家相の見方~中央の意味

家の中央部分を中宮(ちゅうきゅう)といいます。
九星では、強烈な運勢をもつ五黄土星が位置します。

・家の中央部分には、空洞を意味するトイレや浴室、また整理ダンス、冷蔵庫を置いてはなりません。

ア トイレ
・家の中央部分にトイレがあれば、一家の主人、あるいは後天定位盤の中心にある五黄土星生まれの人が悪影響を受け、特に心臓、胃、腸の内臓系が悪くなります。

イ キーワード
・中央部分を理解するキーワードは、空洞の有無です。

ブラ高野~茅の輪くぐり

茅の輪(ちのわ)くぐりは、神道における健康祈願のための呪術の一つで、敷地結界内に茅(かや)で編んだ直径2.5メートル程度の輪っかを建て、参拝者は正面から最初にぐるっと左回り、次に右回りと 八の字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった澱(おり)を落とし、残りの半年間を無事に過ごすことを願う、というものです。
かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたそうですが、無益、無意味と思うものの、茅の輪があればくぐりたくなるという人間の心理は不思議というほかありません。

茅の輪(ちのわ)くぐり(紅葉八幡宮)

家相の見方~東北の意味

東北は、九星のうち、八白土星が位置しています。
東北の方位を鬼門といい、反対側の西南を裏鬼門といいます。
十二支では、丑(うし)と寅(とら)にあたるので、東北の方位をかつては丑寅と言っていました。鬼門の意味を強調する場合は、丑寅の艮(ごん)といいます。
ここは、三合金局と三合火局の接点で、家族では、少年(三男)を意味します。

・東北は、気が陰から陽へ、また陽から陰へ変化する場所であり、万物の終わりと始まりというとらえ方をする場所です。
・一般的には、家相の陰陽では、土地は男の働きで陽、家自体は女の働きで陰とみますが、鬼門だけは、陰と陽が並立する場所ととらえることができます。
・東北の難しさは、変化と停滞あるいは反変化が同時に起こることであり、家の改造は不可、増築も改築も最悪の結果を招きます。
・鬼門は、相続人の場所でもあるので、増改築で形を変えた瞬間から相続争いなど不幸を呼び込む変化が始まります。
・鬼門は、また親戚や兄弟など身内の意味があるので、鬼門のトラブルは、時代を超え、地域に関係なく、世代交代のたびに広く長く続きます。
・鬼門に張りも欠けもなく普通にしておけば、相続で争うことはありません。
・鬼門の方向にある蔵を壊すと、その家は次の代まで持たず、一代で没落するといわれています。

ア 張り
・張りをつくるとどうなるか、鬼門が強すぎると他人の物も身内のものも見境なくほしがるようになります。同じ欲でも強欲に近くなり、相続争いのもととなります。

イ 欠け
・欠けるとどうなるか。金銭の大損失、愛情破綻を招きます。

ウ キーワード
・東北を理解するキーワードは、変化と停滞(反変化)という対立・矛盾するエネルギーです。

エ 丑寅の艮(ごん)の三畳間
・昔から丑寅の艮(ごん)に三畳間をつくると、住人の自死や心中をまぬがれない、といわれています。

ブラ高野~遣唐使船

写真の遣唐使船は、鎌倉時代の絵巻物、宋や元の復元船を手がかりにして製作された模型です。船体内部は、壁式構造で強化していました。2本の帆と小さな網代帆(あじろほ)を張り、風が弱い時は、水夫は櫓棚に立ったまま櫓をこいで船を進めたと考えられています。

遣唐使船の規模は次のとおりです。
全長~30m
全幅~9m
排水量~300t
乗組員数~140人

遣唐使船は、江戸時代の和船でいえば、千五百石船に相当する巨大な船でしたが、人間の背骨にあたるキール(竜骨)がなく隔壁はあるものの波切装置を持たない、たらい船のようなもろい船体では東シナ海の荒波を突っ切れるはずもなく、西暦804年の第16次遣唐使では、4隻のうち行方不明2隻、中国大陸にたどり着いたのは、第1船(弘法大師座乗)と第2船(伝教大師座乗)だけでした。

その後遣唐使派遣の必要性がなくなったこともあり、日本国は日本文化のクセである鎖国体制に突入しました。

遣唐使船模型(福岡市博物館所蔵)

 

 

 

 

 

 

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