NPO法人九州易学開運学院

徒然の記

佐久間象山の占断例

佐久間象山(享年53歳)は、幕末の松代藩士、革命活動家、思想家である。

⑴  状況
明治維新4年前、寺田屋事件や生麦事件等社会不安が充満し、京都では暗殺事件が頻発していた1864年、佐久間象山は幕命により上洛したが、その直前に上洛の是非を自らが占って出た卦は、澤天夬の上爻(号ぶことなし。終に凶あり~助けを求めたところで無駄だ。余命はいくばくもない。最後は凶)であった。
これは易経のメッセージを無視したため、凶運を避けることができなかった事例である。

⑵  実際の行動
易経が「厲(あやう)きこと有り」と警告しているにもかかわらず、佐久間象山は、都路(みやこじ)と名付けた馬に乗って、上洛した。
中川の宮家(京都)の庭先で都路に乗って西洋馬術を演じ、手綱 (たづな)裁きを褒(ほ)められた佐久間象山は感激して「都路を王庭とあらためてさらに修練を積みたいものです」と申し上げた。
こともあろうに、卦辞にある「王庭」を馬の名にする、というのである。

⑶ 結果
号(さけ)ぶことなし、と易経が教えたように中川の宮家からの帰途、馬上で浪士に左右から斬りつけられ叫ぶ間もなく暗殺された。

⑷ 高島呑象先生のなげき
高島呑象先生は、次のように嘆息した、という。
「象山先生ほどの方にしても、このようなことがあるのか。先生の死が運命であるとしても、易占(えきせん)があらかじめ凶を示しているのにどうしてこれを避けることができなかったのだ。易をよく知りながら、これを守ることができなかったのだ。何としても惜しいことである」
引用:易断に見る明治諸事件
(片岡紀明著)

ブラ高野~独楽発祥の地

“博多は独楽の発祥の地”と言われるが、現在の独楽の原型ともなる“丸い木型に鉄芯を打ち込んだ独楽”が17世紀の後半に博多で生まれ,「博多独楽」と呼ばれた。
芯棒に鉄を使用することで 偏心が少なく回転寿命が長くなり,独楽は単純に回して遊ぶだけでなく,相手の独楽にたたきつける“ケンカ独楽”として競う遊びが生まれて全国に広がった。
福岡市営地下鉄祇園駅の近く、龍宮寺山門そばに「旧上小山町」という石碑があり,ここに「旧上小山町」のタイトルで次のように書かれている。
「日本の独楽の発祥の地、この界隈には寺院が多く建ち並び、その塀が長く続く様を博多の人は八丁塀と云った」
博多独楽は博多に伝わる伝統工芸品として、昭和33年に福岡県無形文化財に指定された。

 

吉、凶、悔、吝、咎なしの意味

慣用句に慣れておけば、解釈が楽になるし、慣用句とは少しだけ違う表現があれば目につくので、重要な部分がわかり、易経を理解しやすくなるのである。
ちなみに吉凶等の大まかな意味は、以下のとおりである。

吉(きち)
~善であり、利であり、よろしきことであり、得することである。

凶(きょう)
~凶の字は、地面に掘られた穴に人が落ちた姿を示している。憂い、悩み、苦しみ、禍に遭うことをいう。

悔(かい)
~悔(かい)は天命に従わず、失敗することをいう。悔(く)い悟って善におもむくことを「悔、滅ぶ」という。

吝(りん)
~吝(りん)は失敗してもなお過ちを改めないことである。

咎(とが)なし
~咎(とが)なし、とは失敗しても改めれば咎(とが)めを受けることはないことをいう。

参考:中国の思想Ⅶ 易経(丸山松幸 著)

ブラ高野~カーネーション

南ヨーロッパ原産のカーネーションは母の日に贈る花として、年間を通してフラワーアレンジやブーケなどに利用される。
古代ギリシャ時代にはすでに人々の手によって栽培されていた、という。
カーネーションが日本に入ってきたのは江戸時代初期頃だとされオランダから持ち込まれたらしい。
花色が豊富で品種も多く、切り花とした場合も、キクやバラとはまた、ひと味違った印象を受ける。

赤いカーネーションの花言葉は~母への愛、母の愛、純粋な愛、真実の愛
ピンクのカーネーションの花言葉~感謝、気品、温かい心、美しい仕草

カーネーション

古代中国人相鑑定のエピソード

1 概要
時は紀元前3世紀、のちに漢帝国を建国した高祖劉邦(BC256~BC195)が結婚して子供をもった頃である。ところは中国大陸黄土地帯である。
このエピソードは古代中国ではすでに人相鑑定が存在したことを表している。
史記(BC90年前後に完成)から引用して紹介しよう。
ちなみに著者である司馬遷は、劉邦が逝去して50年後に生まれた歴史家である。

2 史記
「高祖、亭長たりし時、常(かつ)て告帰して田に之く。
呂后、両子と与(とも)に田中に居(お)りて耨(くさぎ)る。一老父あり、過(よぎ)りて飲(のみもの)を請う。呂后、因(よ)りてこれにくらわしむ。老父、呂后を相して曰く、『夫人は天下の貴人なり』と。両子を相せしむ。孝恵を見て曰(いわ)く。
『夫人の貴き所以(ゆえん)は、及(すなわち)此(こ)の男あればなり』と。
魯元を相するに、亦(また)皆貴しという。老父已(すで)に去る。高祖、適(たま)たま旁舎(ぼうしゃ)より来る。
呂后、具(つぶさ)に言う、『客の過(よぎ)るありて我ら子母を相し、皆大いに貴しといえり』と。
高祖、問う。曰(いわ)く、『未だ遠からず』と。
乃(すなわ)ち追い及びて老父に問う。老父曰(いわ)く、『郷者の夫人・嬰児は、皆君に似たり。君の相の貴きことは、言うべからず』と。高祖乃(すなわ)ち謝して曰(いわ)く、『誠に父の言のごとくならば、敢(あ)えて徳を忘れず』と。
高祖の貴きに及びて、遂に老父の処を知らず」

出典:中国の古典12
史記 高祖本紀
(司馬遷 著)

3 高野白山訳
高祖が亭長であったころのこと、ある時、休暇をとって帰郷し、畑に出かけた。呂后が二人の子供と畑で草取りをしていると、一人の老人が通りかかって、飲み物が欲しいと言う。呂后はついでに飯まで食べさせてやった。老人は呂后の人相をみて、「奥さんは、将来、天下の貴人におなりです」と言った。二人の子を見てもらうと、孝恵帝を見て、「奥さんが高貴になるのは、この方のためです」と言った。
魯元公主もやはり高貴な相ということであった。
老人が立ち去ってほどなく、高祖が近くの家から出てきた。呂后は事の次第を詳細に話した。「通りがかりの老人がわたしたち母子の人相を見て、みな大変高貴な相があるって言っていましたよ」
高祖が尋ねた。
「そのじいさんはどこへ行ったのか」
「まだその辺におりましょう」
そこで高祖は急いで追いかけた。追いついて老人に尋ねた。すると老人は言った。
「さき程の奥さんもお子たちも、あなたの相にそっくりだ。あなたの相の高貴さはとても言葉では言い表せない」
高祖は礼を述べて言った。
「本当に御老のお言葉通りになったならば、御恩は決して忘れません」
だが劉邦が漢の始祖になったとき、老人はどこへ行ったのか、ついにわからなかった。
※呂后~高祖夫人 ※孝恵帝~高祖の長男 ※魯元公主~高祖の長女

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