高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

相性論の根拠

人間関係の良し悪しは、実は相性(あいしょう)で決まっている、といいますが、なぜ相性があるのか、誰も説明できず、これは人間の一生を支配する本命星に由来している、というほかありません。
九星気学では、五行思想を根拠にして相性を説明しています。
五行思想では、木、火、土、金、水の五つの自然要素による相互の影響関係を相生(そうしょう)と相剋(そうこく)といいます。
相生は、仲良しで気が合う間柄、相剋は、なんだか虫が好かない相手となります。
数々の実例を検証すると親子、兄弟でも五行の原則が持つ親和と対立の関係が8割程度該当することがわかります。

人間関係がうまくいかない場合は、相手の本命星を調べて、自分と相剋の関係になっていないか確認する必要がありますが、相性を調べれば、相手の本音がわかる時があり、別の対応ができるからです。
同じ本命星同士の関係は、原則として比和といってまず可もなく不可もない関係を保つことができるとされています。

相生と相剋の関係を手掛かりに、実例に照らし合わせながら連想能力を働かせると不思議な説得力がある結果が出ます。

※五行思想~人間も宇宙も、木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)の五つの自然要素からなり、相互に影響し、盛衰生滅を繰り返しながら、循環していくという説。

ブラ高野~湧出石

筥崎宮(福岡市)の境内に埋まって少しだけ頭を出している湧出石は、真偽はともかく案内板によると、国難があるときに地上に姿をあらわすという言い伝えがあります。
この石にふれると運が湧き出るといわれ、招福開運のご利益もあるそうです。

湧出石

湧出石看板

繋辞下伝~三才

易経では天道と人道と地道を三才(さんさい)といいますが、それぞれに二つの爻(こう)がついているので、天道と人道と地道としてあわせて六つの爻があります。
爻は、変動という意味があり、具体的な指針を教えます。
三才は、三材(さんざい)とも言います。

「易という書物は、内容が広大であらゆる道理を備えている。天道と人道と地道がある。
天と人と地の三才がそれぞれ二つの爻に該当し、その合計が六つの爻である。六という数は他でもない、三才の道なのである。そして三才には、変動があり、その変動に効(なら)うという意味で爻と呼ばれるのである」

○書き下し文
「易の書たるや、広大ことごとく備わる。天道あり、人道あり、地道あり。三材を兼ねてこれを両(ふた)つにす。故に六なり。六とは它(た)にあらざるなり。三材の道なり。道に変動あり、故に爻という」
※它(た)~ほか、よそごと

 

ブラ高野~矢切の渡し

江戸時代初期に運行を開始したといわれる八切の渡しは、江戸川をはさんで東京都葛飾区柴又と千葉県松戸市矢切を結んでおり、現在も渡し舟が運行されています。
都内に残る唯一の渡し舟であり、小説「野菊の墓」にも登場しています。
なによりヒット曲「矢切の渡し」を生んだ渡し場として有名です。

繋辞下伝~易作者の憂慮

易経の著者は、3000年前の古代中国をどう認識していたか、繋辞下伝(けいじかでん)にヒントらしきものが書いています。

「易書の成立は、殷末期、周初期であろうか。易の作者は、時勢を憂いていたのであろうか」

○書き下し文
「易の興るや、それ中古におけるか。易を作る者は、それ憂患あるか」

ブラ高野~四国八十八ヶ所22番札所

四国八十八ヶ所22番札所の平等寺は、天正年間に土佐の大名長宗我部氏による兵火で焼失し、江戸時代中期に再興されて現在に至っています。

坂の左下にどんな日照りにも枯れることがないという湧き水が湧き出ています。
湧き水は、無色透明、真偽はわかりませんが、万病にきく霊水として全国に知られています。

大師堂に保管している箱車は、足の不自由な人が完治した記念として奉納されたものです。

繋辞下伝~治に居て乱を忘れず

繋辞下伝(けいじかでん)のアドバイスは、普遍性豊かな、深い意味を持っています。
例えば、治に居て乱を忘れず、と教えています。
事態を甘く見てはならない、危機管理意識を忘れるな、という意味でしょうか。

「危いと思って反省する人間は、地位が安泰であり、亡びを恐れて行いを振り返る者は、存立できる者である。乱れを心配する者は、治世を保つ者である。したがって、君子は、安全と思っても危機を忘れず、国が順調に存立している場合でもその滅亡を忘れず、治に居ても乱を忘れないのだ。このようにしてその身はやすらかとなり、国家の安泰を保つのである」

○書き下し文
「子曰く、危うき者は、その位に安んずる者なり。亡びんとする者は、その存を保つ者なり。乱るとする者は、その治を有(たも)つ者なり。この故に君子は安くして危うきを忘れず、存して亡ぶるを忘れず、治まりて乱るるを忘れず。ここをもって身安くして国家保つべきなり」

ブラ高野~室見川

室見川は、延長約15km、福岡市西部を貫流し博多湾に注ぐ清流ですが、上流には曲渕ダムがあり、さらにその上は八丁川と呼ばれて、美しい野河内(のごうち)渓谷を形成しています。

護岸工事以前は、中流域で1.5m程度の丸太のような野鯉が姿を見せたり、台風の後は砂洲の水たまりに取り残されたウナギが釣れていました。
河口付近には干潟があり、今でも毎年2月から4月はじめにかけて名物の白魚(しろうお)が博多湾からのぼってきます。

仮設茶屋では白魚のテンプラやかき揚げ、踊り食いを食べることができます。
旧国鉄の筑肥線が通っていたころは、夕方にポッポ―という蒸気機関車の汽笛が聞こえ、何とも言えない風情がありました。

博多湾方面

野河内渓谷方面

繋辞下伝(けいじかでん)~去(きょ)と来(らい)

去ることは消滅することではなく力を蓄えることであり、来るとは力を発揮することであると考えている繋辞下伝は、人生の応援歌でもあります。

「太陽が沈めば月が昇る。月が隠れれば太陽が昇る。日月が交代で推移することにより、自然の明るさが生じるのである。寒さが過ぎれば暑くなる、暑さが去れば寒くなる。暑さと寒さが互いに推移して1年が形成される。去るとは消滅ではなく、屈すること、すなわち身を縮めて力を蓄えることである。来るとは、伸びること、すなわち身を伸ばして力を発揮することである。屈と伸の交替・循環により、大きな効果が生じるのである」

○書き下し文
「日往けばすなわち月来り、月往けばすなわち日来り、日月相推して明生ず。寒往けばすなわち暑来り、暑往けばすなわち寒来り、寒暑相推して歳成る。往くとは屈するなり。来るとは信(の)ぶるなり。屈信相感じて利生ず」

ブラ高野~鴻臚館(こうろかん)

鴻臚館(こうろかん)は、外国の使節を接待した施設で、9世紀に博多・大阪・京都の3ヶ所に置かれました。

2004年に国指定史跡となった博多の鴻臚館は、当初、筑紫館(つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期に唐の「鴻臚寺」にならって「鴻臚館」と名を改めました。
鴻臚寺の「寺」は役所のことで、鴻臚とは、賓客の来訪を大声で伝達するという意味だそうです。
当時、延長15~16km、側溝付き幅10m~20m程度の立派な直線道路が鴻臚館から太宰府まで通っていたそうです。

鴻臚館跡展示館には、建物跡や復元模型、大量に出土した焼物などの遺物が展示されています。
なかにはガラス製のコップやイスラム産の焼物といった西アジアの物も含まれており、この地は昔から海外交流が盛んであったことがわかります。

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