高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~大国主(オオクニヌシ)の無念

島根県出雲市の日本海に広がる稲佐(いなさ)の浜は大和朝廷と出雲朝廷が最後に談判した場所である。稲佐という地名の由来は、
降伏しないのは、いな(稲)
降伏するのは、さ(佐)
稲佐の浜で大和朝廷軍は大国主に降伏するかどうか、いな(稲)、か、さ(佐)、か、と迫ったのである。

大国主は最後には二人の息子(コトシロヌシ、タケミナカタ)を失った。
コトシロヌシは、天の逆手(呪いの柏手)を打って自死したのであろうか。
タケミナカタも日本海を渡って長野県諏訪地方まで転戦したが、健闘むなしく敗死し諏訪大社のご祭神として祀り上げられ、封じ込められたのである。

国譲りが平和裡に行われたというような非常識をいってはいけない。
大国主をご祭神にした出雲大社の巨大さはどうであろう。
本殿の高さは24m(8丈)もある。
かつて本殿の高さが約96m(32丈)あったとは信じられないが、半分の48m(16丈)であれば、当時の技術でも充分可能だったはずである。

本殿では、大国主は参拝者にそっぽを向いて西方稲佐の浜に向いて祀られている。
実は参拝者は、正面に位置する、大和客神五柱と呼ばれる神々に向かって礼拝しているのである。
死を象徴する四拍手も含めて、神々の配置は、大和朝廷の悪意によるのであろう。

平安時代に発行された子供用の教科書である口遊(くちずさみ)によると、一番大きい建物が出雲大社、次が奈良の東大寺、三番目が京都御所の大極殿である。
これを「雲太、和二、京三」という。

日本一大きな神殿をつくって、なぜ大国主を祀り上げる必要があったのか?
大和朝廷が大国主の怨霊をかくも恐れる理由は何か?
大国主がどんな死に方をしたのか文書の記録は残っていないが、コトシロヌシ、タケミナカタの死にざまをみて、想像することは可能である。

稲佐の浜と弁天島

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