博多祇園山笠は、博多総鎮守の櫛田神社(福岡市博多区)に山笠を奉納する神事であり、国の重要無形民俗文化財である。
祭りの期間は、毎年7月1日から15日、7月15日には午前4時59分から勇壮無比の奉納神事が執り行われる。
山笠を奉納した流(ながれ)が、清道と呼ばれる櫛田神社の境内半周を全速力で走った後、「オッショイ」という掛け声をかけながら市街地を疾走していく巡行である。
これは追い山笠といって博多祇園山笠のハイライトである。
今では流(ながれ)は、恵比須流・大黒流・土居流・東流・西流・中洲流・千代流の七流である。
流舁き(ながれがき)は、聖一国師の故事にならって、山笠が町内を走って浄める神事である。
2025年のスケジュールは次の通りである。
・お汐井取り~7月1日(火)、7月9日(水)
・流舁き~7月10日(木)
・追い山笠ならし~7月12日(土)
・集団山見せ~7月13日(日)
・追い山笠~7月15日(火)(4時59分)
徒然の記
ブラ高野~博多祇園山笠
易経の三大思想 その2
1 安定の思想
ア 概要
安定の思想については、天地否と地天泰という二つの大成卦で説明できる。
天が上にあり、地が下になるというノーマルな形の天地の卦が否定を意味し、逆に地が上にあり天が下になる、という地天の卦が安泰を意味するのはなぜか?
天地否は柔である地の上に、剛である天が乗り、地は今にも押しつぶされそうで不安定感を表し、地天泰は、剛である天の上に、柔である地が乗っているためバランスがとれ平穏である、とみるのである。これは易経独特のバランス感覚である。
イ 地天泰
泰は、おおきい、やすらか、という意味で、安泰、泰然、天下泰平という熟語がある。その意味は、「つまらない小人(しょうじん)は去っていき、見識ある立派な人がやってくる。吉にして通る」 ・
地天の卦は、上に断線の軽い柔が乗り、下では直線で重い剛が支えるので、バランスがとれているとみるのである。あるいは地は下へ下り、天は上へ上るので天地陰陽が融合し安定するともいう。
三国志という戦記に描かれているばかりではなく、中国共産党一党支配の現代でも、文化大革命という美称のもとで、2,000万人単位の大虐殺があったように、絶え間ない戦乱の大陸である中国で生まれた易経の理想は、安定した平和な社会の実現である。
ウ 天地否
否の意味は、否定、否認、拒否である。
地天泰と逆で、
「まともに人のとるべき道が行われない。君子であっても正しいことが通用しない。見識ある立派な人は去っていき、つまらない小人(しょうじん)がやってくるからだ」
算木の形をみると、上に直線で重い剛があり、下が断線で軽い柔となっている。剛が柔を押しつぶすという将来の危機を告げているのである。
あるいは乾(天)は上へ上り、坤(地)は下へ下るので、天地分裂ともいう。
2 平和志向の教え
(1) 概要
戦乱の中国大陸で生まれた易経は、戦禍(戦争)を嫌った平和志向が強い教えである。
平和志向の根拠は以下の条文である。
(2) 澤天夬
夬は、朝廷で議論し、誠意をもって話しても危うい。中央ではなく、地元から声をあげ決行するのだ。ただし、武力をもちいるのはよろしくない。徳をもってすれば進んでよい。
(3) 離為火
離は、正しければ良い。通る。牝牛のような柔順さを持てば吉。
王が兵を率いて出征する。戦いに勝利し、相手の大将を誅殺する。しかし、捕虜を殺さず寛大に処置すれば、咎めはない。
(4) 地雷復
復は、通る。出るにも入るにも障りはない。友人が集まってきて問題ない。その道を繰り返して行えば、七日で事態が改まる。進んでもよい。
(5) 地水師
師は、正しくなければならない。実力のある司令官に率いれられれば吉で問題ない。進み難きを知って退く。この兵法の常道を守れば咎めを免れる。
(6) 地山謙
謙は、通る。君子であれば終わりを全うすることができる。
謙遜の心がおのずと言動に表れるが。人々に理解されない。兵を動かしとしても、ただ自分の領地内を平定するにとどめるがよい。
ブラ高野~牡丹
易経の三大思想 その1
1 概要
易経を特徴づけているのは変化・循環の思想及び安定と平和志向の教えである。
2 変化・循環の思想
陰陽消長十二卦及び水火既済と火水未済の卦で表現されている変化と循環の思想は次の通りである。
(1) 陰陽消長十二卦(いんようしょうちょうじゅうにか)
いのち(命)は、発生、成熟、死滅、再生の営みを繰り返すが、これを象徴したのが易経六十四卦のうち下記の陰陽消長十二卦である。
易経は、天地の法則は陰と陽の絶え間ない循環と変化である、と考えているのである。冬が去ると、春になる。陽気が増大し夏になると、次は秋が来て、また寒い冬になる。自然の推移は、易経が陰陽消長十二卦で表すように全地球のルールなのである。
1坤為地(大地)→2地雷復(復活)→3地澤臨(希望)→4地天泰(安泰)→5雷天大壮(加速)→6澤天夬(決断)→7乾為天(栄華)→8天風姤(出会い)→9天山遯(引退)→10天地否(否定)→
11風地観(観察)→12山地剝(崩壊)
(2) 水火既済と火水未済
ア 水火既済
水火既済(きせい)は、完成という意味である。初爻から上爻まで陰陽が交互に並び理想の形になっている。終りは乱(みだ)る、と書いているが、この意味は、完成したものが永続することはなく、やがて消滅し再生と循環を繰り返すことを暗示しているのである。水火既済が易経の最後である64番目ではなく63番目にあるのは、これで終わったわけではない、宇宙は永遠に循環を続ける、という易経からのメッセージを形にして示しているのである。
イ 火水未済
火水未済(びせい)は、未完成という意味である。完成を意味する水火既済で全巻を終わらず、いまだ成らずという火水未済をあえて64番目に置いて易経を終わりつつ万物流転の様相を表したのは、易経作者の英知である。
ブラ高野~福岡城潮見櫓
佐久間象山の占断例
佐久間象山(享年53歳)は、幕末の松代藩士、革命活動家、思想家である。
⑴ 状況
明治維新4年前、寺田屋事件や生麦事件等社会不安が充満し、京都では暗殺事件が頻発していた1864年、佐久間象山は幕命により上洛したが、その直前に上洛の是非を自らが占って出た卦は、澤天夬の上爻(号ぶことなし。終に凶あり~助けを求めたところで無駄だ。余命はいくばくもない。最後は凶)であった。
これは易経のメッセージを無視したため、凶運を避けることができなかった事例である。
⑵ 実際の行動
易経が「厲(あやう)きこと有り」と警告しているにもかかわらず、佐久間象山は、都路(みやこじ)と名付けた馬に乗って、上洛した。
中川の宮家(京都)の庭先で都路に乗って西洋馬術を演じ、手綱 (たづな)裁きを褒(ほ)められた佐久間象山は感激して「都路を王庭とあらためてさらに修練を積みたいものです」と申し上げた。
こともあろうに、卦辞にある「王庭」を馬の名にする、というのである。
⑶ 結果
号(さけ)ぶことなし、と易経が教えたように中川の宮家からの帰途、馬上で浪士に左右から斬りつけられ叫ぶ間もなく暗殺された。
⑷ 高島呑象先生のなげき
高島呑象先生は、次のように嘆息した、という。
「象山先生ほどの方にしても、このようなことがあるのか。先生の死が運命であるとしても、易占(えきせん)があらかじめ凶を示しているのにどうしてこれを避けることができなかったのだ。易をよく知りながら、これを守ることができなかったのだ。何としても惜しいことである」
引用:易断に見る明治諸事件
(片岡紀明著)
ブラ高野~独楽発祥の地
“博多は独楽の発祥の地”と言われるが、現在の独楽の原型ともなる“丸い木型に鉄芯を打ち込んだ独楽”が17世紀の後半に博多で生まれ,「博多独楽」と呼ばれた。
芯棒に鉄を使用することで 偏心が少なく回転寿命が長くなり,独楽は単純に回して遊ぶだけでなく,相手の独楽にたたきつける“ケンカ独楽”として競う遊びが生まれて全国に広がった。
福岡市営地下鉄祇園駅の近く、龍宮寺山門そばに「旧上小山町」という石碑があり,ここに「旧上小山町」のタイトルで次のように書かれている。
「日本の独楽の発祥の地、この界隈には寺院が多く建ち並び、その塀が長く続く様を博多の人は八丁塀と云った」
博多独楽は博多に伝わる伝統工芸品として、昭和33年に福岡県無形文化財に指定された。
吉、凶、悔、吝、咎なしの意味
慣用句に慣れておけば、解釈が楽になるし、慣用句とは少しだけ違う表現があれば目につくので、重要な部分がわかり、易経を理解しやすくなるのである。
ちなみに吉凶等の大まかな意味は、以下のとおりである。
吉(きち)
~善であり、利であり、よろしきことであり、得することである。
凶(きょう)
~凶の字は、地面に掘られた穴に人が落ちた姿を示している。憂い、悩み、苦しみ、禍に遭うことをいう。
悔(かい)
~悔(かい)は天命に従わず、失敗することをいう。悔(く)い悟って善におもむくことを「悔、滅ぶ」という。
吝(りん)
~吝(りん)は失敗してもなお過ちを改めないことである。
咎(とが)なし
~咎(とが)なし、とは失敗しても改めれば咎(とが)めを受けることはないことをいう。
参考:中国の思想Ⅶ 易経(丸山松幸 著)
ブラ高野~カーネーション
古代中国人相鑑定のエピソード
1 概要
時は紀元前3世紀、のちに漢帝国を建国した高祖劉邦(BC256~BC195)が結婚して子供をもった頃である。ところは中国大陸黄土地帯である。
このエピソードは古代中国ではすでに人相鑑定が存在したことを表している。
史記(BC90年前後に完成)から引用して紹介しよう。
ちなみに著者である司馬遷は、劉邦が逝去して50年後に生まれた歴史家である。
2 史記
「高祖、亭長たりし時、常(かつ)て告帰して田に之く。
呂后、両子と与(とも)に田中に居(お)りて耨(くさぎ)る。一老父あり、過(よぎ)りて飲(のみもの)を請う。呂后、因(よ)りてこれにくらわしむ。老父、呂后を相して曰く、『夫人は天下の貴人なり』と。両子を相せしむ。孝恵を見て曰(いわ)く。
『夫人の貴き所以(ゆえん)は、及(すなわち)此(こ)の男あればなり』と。
魯元を相するに、亦(また)皆貴しという。老父已(すで)に去る。高祖、適(たま)たま旁舎(ぼうしゃ)より来る。
呂后、具(つぶさ)に言う、『客の過(よぎ)るありて我ら子母を相し、皆大いに貴しといえり』と。
高祖、問う。曰(いわ)く、『未だ遠からず』と。
乃(すなわ)ち追い及びて老父に問う。老父曰(いわ)く、『郷者の夫人・嬰児は、皆君に似たり。君の相の貴きことは、言うべからず』と。高祖乃(すなわ)ち謝して曰(いわ)く、『誠に父の言のごとくならば、敢(あ)えて徳を忘れず』と。
高祖の貴きに及びて、遂に老父の処を知らず」
出典:中国の古典12
史記 高祖本紀
(司馬遷 著)
3 高野白山訳
高祖が亭長であったころのこと、ある時、休暇をとって帰郷し、畑に出かけた。呂后が二人の子供と畑で草取りをしていると、一人の老人が通りかかって、飲み物が欲しいと言う。呂后はついでに飯まで食べさせてやった。老人は呂后の人相をみて、「奥さんは、将来、天下の貴人におなりです」と言った。二人の子を見てもらうと、孝恵帝を見て、「奥さんが高貴になるのは、この方のためです」と言った。
魯元公主もやはり高貴な相ということであった。
老人が立ち去ってほどなく、高祖が近くの家から出てきた。呂后は事の次第を詳細に話した。「通りがかりの老人がわたしたち母子の人相を見て、みな大変高貴な相があるって言っていましたよ」
高祖が尋ねた。
「そのじいさんはどこへ行ったのか」
「まだその辺におりましょう」
そこで高祖は急いで追いかけた。追いついて老人に尋ねた。すると老人は言った。
「さき程の奥さんもお子たちも、あなたの相にそっくりだ。あなたの相の高貴さはとても言葉では言い表せない」
高祖は礼を述べて言った。
「本当に御老のお言葉通りになったならば、御恩は決して忘れません」
だが劉邦が漢の始祖になったとき、老人はどこへ行ったのか、ついにわからなかった。
※呂后~高祖夫人 ※孝恵帝~高祖の長男 ※魯元公主~高祖の長女







