高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~玄洋社記念碑

旧黒田藩士が明治14年に結成しアジア主義を標榜した政治結社である玄洋社は、結社員として杉山茂丸、頭山満、内田良五郎、進藤喜平太らが参加しました。
ヨーロッパで大諜報活動をして日露戦争の勝利に貢献した明石元二郎大佐も社員の一人でした。
玄洋社は、福陵新報という新聞を発行したり、辛亥革命を助け軍閥と戦闘するなどアジアの独立運動を支援しながら、日清戦争、日露戦争、第一次、第二次世界大戦で情報収集や裏工作に関係し、軍部・官僚・財閥、政界に大きな影響力を持っていたそうです。
那の津と呼ばれた昔から博多は、海を渡ってアジア諸国と深い交流を続けたせいか、中国戦国時代の壮士を気取った連中も出入りしましたが、主義主張はともかくこの地には玄洋社が生まれる素地があったのでしょう。
2008年玄洋社記念館が閉館したあと、記念碑がNTTドコモ舞鶴ビルの一角に設置されています。

 

タロットカードⅧ~力(STRENGTH)

タロットのカード№8は、力(STRENGTH)を表しています。
このカードをみると、素手で獅子を抑え込んでいる女性からは憎しみや嫌悪の表情がなく、憐みの感情さえ読み取ることができます。
この女性がただ者ではないことは頭の上に描かれている、無限大を意味するレミニスカートのサインからも明らかです。
このカードは、精神力を武器として獣性を象徴するエゴや本能とどう戦っていくか―克己という深刻で重大な課題を提示しています。
これは、また強固な意志力と障害を乗り越える忍耐力、最後まであきらめない粘り強さを強調するカードでもあります。
正位置では、大恋愛やバイタリティ、逆位置では、別離や自信喪失、諦めなど事態の悪化を意味します。

 

 

ブラ高野~不忍池(しのばずのいけ)

上野公園にある不忍池は、周囲約2km、全体で約11万m2。東で京成上野駅、南と西で不忍通りに面しています。
現在では、埋め立てが進んでただの溜め池のようになっていますが、江戸時代から明治初期まではもっと水深が深く、水量豊かだったようです。
池の中央には弁才天を祀る弁天島があります。
不忍池は、三つのパーツに分かれて、それぞれ、一面蓮で覆われる蓮池、ボートを漕いで楽しむことのできるボート池、カワウが繁殖している鵜の池です。
かつてここは東京湾の入り江でしたが、海岸線の後退とともに水だけが取り残されて、池になったと考えられています。

 

吉凶悔吝(きちきょうかいりん)が生じる理由

吉凶悔吝がなぜ生じるのか.
繋辞下伝によると、その理由は、万物が変化・変動するため、ということになります。
世界を読み解くキイワードの一つは、「変化の様相」といっていいでしょう。

「八卦が序列どおりに並んで、万物のかたちはその中に含まれる。八卦を重ねた六十四卦に爻を配置している。爻は、剛柔互いに推移・交錯することによって様々な変化を生じる。卦と爻より、万物の動きが言い尽くされる。吉凶悔吝は、万物の変動とその様相から生じるのである」

○書き下し文
「八卦列を成して、象その中に在り。因りてこれを重ねて、爻その中に在り。剛柔相推して、変その中に在り。辞を繋(か)けてこれに命じ、動その中に在り。吉凶悔吝は、動に生ずるものなり」

ブラ高野~東武博物館

東京の東向島駅高架下にある東武博物館は、交通・流通・住宅・レジャーなど総合産業を経営する東武グループの中核企業である東武鉄道の資料や車両などを展示しています。
この博物館は、東武鉄道創立90周年記念事業として1989年(平成元年)に開館しました。
九州ではなじみがありませんが、東武鉄道は、JRを除くと営業キロ数(463km)は、近鉄に次いで全国第2位、大手私鉄の一つです。
ちなみに西鉄は、営業キロ数約100km程度です。
路線は、東武スカイツリーライン・日光線や野田線を軸とした本線と、東上本線・越生線からなる東上線の2つの路線があります。

 

 

 

土(ど)の特性

木(もく)、火(か)、土(ど)、金(ごん)、水(すい)という五つの自然要素を五行といいます。
それぞれの特徴としては、
木~発生と成長
火~発展と拡大
土~停滞と変化
金~成熟と安定
水~分解と浄化
このうち、土だけは、停滞の要素と変化の作用が同時に起こり、状況としては全く固まって動くはずはないのに、別の所で何らかの変化を起こそうとする働きが出てきます。

土の作用と書いて土用といい、その習慣を調べると、陰暦で生活していた人々は、相反する陰と陽が同時に起こる土の怖さを意識していたことがわかります。
土用の期間は、春夏秋冬という四季の直前18日間を指し、季節の変わり目、注意喚起の時です。
土用を乗り切ってようやく新しい季節を迎えることができる、と昔の人は考えたようです。

ちなみに平成29年の土用の入りと明けは、次のようになっています。
1月17日~冬の土用入り、2月3日~冬の土用明け    
4月17日~春の土用入り、5月4日~春の土用明け    
7月19日~夏の土用入り、8月6日~夏の土用明け    
10月20日~秋の土用入り、11月6日~秋の土用明け    

ブラ高野~神田古書店街

神田古書店街は、明治10年代にこの地域に創立された明治大学、中央大学、日本大学、専修大学の学生を対象に古書店が次々にできていったのがその始まりだといわれ、太平洋戦争中も空襲を受けず、130年の歴史を持っています。
ここの古書店街の特徴は、各古書店が、それぞれに専門分野を持っており、しかもその分野が、文学・哲学・社会科学・演劇・自然科学・洋書などバラエティに富んでいることです。
総数約140軒、都内の古書店の約三分の一がこの地域に集中しています。
また、約200m続く古書店街から漂う独特のかおりが2001年には環境省選定のかおり風景100選にも選ばれています。

神田古書店街
%e7%a5%9e%e7%94%b0%e5%8f%a4%e6%9b%b8%e8%a1%97

易の弁証法

繋辞上伝では、乾と坤という命題の対立と統一がなければ運動も発展もあり得ない、という弁証法を次のように語っています。
「乾と坤の対立と統一が易の核心である。乾と坤が天地上下に分かれ、つらなることで易が成立するのだ。乾と坤の相互関係がなくなれば、易の働きを見ることもない。易の働きを見ることができなければ、乾と坤の相互関係も終息したも同然である」

○書き下し文
「乾坤はそれ易の縕(うん)か。乾坤列を成して、易その中に立つ。乾坤毀(やぶ)るれば、すなわちもって易を見ることなし。易見るべかざれば、すなわち乾坤あるいは息(や)むに近し」
※縕(うん)~核心、奥底

ブラ高野~箱崎灯篭

福岡市東区の箱崎浜に、高さ約6メートル、石造りの均整のとれた立派な灯籠がたっています。
これは、1817 年(文化14年)に箱崎浦の漁師たちが博多湾に出漁するため、帰船の目印として作ったものです。
灯籠の上部は木製で夜の火入れは、漁師たちが当番で当たったそうです。
現在の灯籠は、1968年(昭和43 年)に景観づくりの一環として修築したものです。

箱崎灯篭
箱崎灯篭

 

 

 

 

卜と筮の由来

繋辞上伝では、聖人が卜と筮を始めた由来を次のように説明しています。
「このように天が亀甲や筮竹のような神秘のものを生んだので、聖人は、卜筮の術を始めた。天地の変化に感応して、聖人が陰陽の原理を抽出し、また天が自然現象によって、吉凶を示す事実を見て、聖人は吉凶の判断を設けた。さらに黄河から出た河図、洛水から発見された洛書を参考に聖人は八卦をつくった」

○書き下し文
「この故に天、神物を生じて、聖人これに則(のっと)り、天地変化して、聖人これに效(なら)い、天、象を垂れ吉凶を見(しめ)して、聖人これに象(かたど)り、河図を出し、洛書を出して、聖人これに則(のっと)る」

TOPページ

ページの先頭へ