高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

本命星の出し方と相性の事例

九星気学の活用は、生まれ星である本命星を見つけ出すことから始まります。
本命星を出す手順は、次のとおりですが、キーナンバーは、11です。
ただし、生まれ月が1月1日~2月3日の人は、前年の生まれとみます。
例を挙げると、女優の菅野美穂は1977年生まれなので、まず
①生まれ年の数字を単に合計する。
→1+9+7+7=24
②24を2と4に分解して合計する。
→2+4=6
③11から6を引く
→11-6=5
菅野美穂の本命星は、五黄土星とわかります。

堺雅人と菅野美穂の相性を見ると、
・堺雅人~1973年生まれ
→1+9+7+3=20
→2+0=2
→11-2=9(九紫火星)
・菅野美穂~1977年生まれ
→1+9+7+7=24
→2+4=6
→11-6=5(五黄土星)
~九紫火星の人は、五黄土星の人を選ぶと無難に過ごせる、という結論になります。

お笑いコンビ爆笑問題の相性は、
・田中裕二~1965年1月生まれ
→1+9+6+4=20(1月生まれのため、前年の1964年生まれとして計算する)
→2+0=2
→11-2=9(九紫火星)
・太田光~1965年生まれ
→1+9+6+5=21
→2+1=3
→11-3=8(八白土星)
~九紫火星の人は、八白土星の人と絶好のパートナーとなることができます。

ブラ高野~能古島

能古島(のこのしま)は、たらいのような博多湾中央に浮かぶ面積約4平方キロ、物成り豊かな島ですが、60年前の地図では、「残島」という表記でした。
行政区分では、福岡市西区に属しています。
この島が離島振興法の適用を受けないのは、市営渡船で約10分という近距離で地続きとみなされているからでしょう。
能古島からは福岡タワーやヤオフクドームなど福岡市街地の景観を楽しむことができます。
奈良時代は、防人が駐屯し、狼煙台も設置していたらしく、正岡子規と並ぶ万葉の大歌人山上憶良がある船乗りの遭難を悼んだ詩が残っています。

~沖つ島 鴨とふ船の 帰り来ば 也良(やら)の防人 早く告げこそ
意味は、
「沖の方から鴨という名の船が帰ってきたら、也良の防人よ、早く私に知らせよ」
もしかしたら、生きて戻ってくるかもしれない、という悲痛な叫びが聞こえてくるようです。

能古島の特産品としては、甘夏ミカンや能古うどんが有名です。

※也良~能古島北端の岬

能古島

能古島

占いの意義

占いの意義は、進路で迷った場合に選択のヒントを受け取ったり、人物像や人間性の把握が可能なことに加え、また激励メッセージを送信する人生の応援歌、人生賛歌でもあります。
以下、それぞれについて詳しく申し上げましょう。

1 進路選択のヒント

かつて十字路や橋のたもとに立ち、通行人がしゃべる言葉を聴いて、事の吉凶を判断するという、言葉の神性に着目した辻占(つじうら)や橋占(はしうら)、また、南海の漂流者たちが、必死の思いで日本への方向について、ご神意を伺う御幣占いがあったといいます。
人はなぜ、大事な時にかぎって迷ったあげく方向性を間違えるのでしょうか?
進学や就職、結婚で迷いに迷ったあげく失敗することがあるのは、どうしてでしょう?
自分の心理をあとで振り返ると、何となくどこか引っかかるような、もう一つのぼんやりしたものがあったことに気づきます。
この気がかりとも言えないような、かすかな存在を直感といいます。
直観は、その中味を明確に確認できない性質のものです。
動物は、よけいなことは考えず、素直に、思いのまま行動するため、方向性を間違えることはありません。
では、なぜ人間にかぎっては失敗するのでしょうか?
なぜ、直感をきちんと認識し、信頼し、行動できないのでしょうか?
我々には、必要以上の色々の想いー欲望ーがあるからだ、と答えざるを得ません。
欲望が直観力の発揮を妨げているのは、フロイトの心理モデルを活用して説明可能です。
過剰な食物摂取や小賢しさが邪魔になって心が曇り、生まれながら持っている直感を生かした予知力を発揮できないのす。
では、このやっかいな欲望というものにどういう姿勢で臨むべきなのでしょうか?
易経では、仏教教理と違って欲望を分析したり、対峙することなく、「君子」という表現でさりげなく指摘し、一定の方向を教示するだけです。
この世をおおらかに肯定している易経は、この点、わかりやすく万人向けといえるでしょう。
占いは、「注文の多い料理店」(宮沢賢治作)のように、様々な虚飾をきれいに取り払った後、人間が本来持っているピュアな直感力をひっぱり出す作業でもあります。
当たってあたり前、不思議なことはありません。
なぜ的中するのか、その理由についてはユングの仮説が参考になります。
いずれにせよ、的中させるパワーと解釈力によって、占いは、日常生活のサポート機能を果たすことができるのです。

2 人物像や人間性の把握
古代ギリシャの格言に、「汝自身を知れ」とあるそうですが、実は、自分自身が何者であるか把握するのは思うほど容易なことではありません。
しかしながら、易占いをもってすれば、人物像を理解するのはさほど難しいことではありません。
九星気学でも、本命星、月命星と八卦の思想を組み合わせた傾斜法を使うと、自分であれ他人であれ、その人物の性格や好み、憧れなど深い部分を知ることができます。
さらに、手相や人相、姓名判断で運勢や宿命まで明らかにできます。

3 人生の応援歌、人生賛歌
易経の注釈書である繋辞伝には不運の時こそ力を貯めよ、という励ましのメッセージが書いています。
占いは、人生の応援歌、人生賛歌でもあります。
繋辞伝では、
「日往けばすなわち月来り、月往けばすなわち日来り、日月相推して明生ず。寒往けばすなわち暑来り、暑往けばすなわち寒来り、寒暑相推して歳成る。往くとは屈するなり。来るとは信(の)ぶるなり。屈信相感じて利生ず」
意味は、
「太陽が沈めば月が昇る。月が隠れれば太陽が昇る。日月が交代で推移することにより、自然の明るさが生じるのである。寒さが過ぎれば暑くなる、暑さが去れば寒くなる。暑さと寒さが互いに推移して1年が形成される。去るとは消滅ではなく、屈すること、すなわち身を縮めて力を蓄えることである。来るとは、伸びること、すなわち身を伸ばして力を発揮することである。屈と伸の交替・循環により、大きな効果が生じるのである」

ブラ高野~亀山上皇銅像

筥崎宮(鎮座:福岡市東区)に「敵国降伏」の扁額を奉納した亀山上皇の銅像が福岡市博多区の東公園に立っています。
高さ約4.8m、制作したのは、福岡市出身の山崎朝雲という彫刻家だそうです。
この銅像があるせいかどうかわかりませんが、ここ一帯およそ半径100mの範囲は、いつ行ってもピーンと張りつめたような、澄み切った空気感があるのが不思議でなりません。
亀山上皇がどんな人物だったのか易経に尋ねてみたい、という気がしています。

銅像

亀山上皇

台座
亀山上皇敵国降伏

二四六会

二四六会は、ある研修で偶然に知り合った女性1人、男性5人計6人の親睦会です。
平成2年に結成されてから25年間毎年1~2回食事会をしています。
メンバーに助けられることも多く、また相談ごとを受けたりすることもあります。
出身地、年齢、性別が違う人間が集まっているのに、長い間懇親を続けていけるのは、人のご縁というほかありません。

二四六会

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繋辞上伝(その1)

易経の解説書にとどまらず、優れた思想書でもある繋辞伝は、孔子門の著作ですが、根拠がないためいつ頃だれが書いたか明確ではありません。
しかしながら、吉凶の根拠や意味そして易経の成り立ちまでしっかり書いていますので、易経を理解すのに最適の参考書です。
そのエッセンスをわかりやすく意訳しながらご紹介しましょう。

○吉凶の生じる理由
天、高くして尊く、地、低くして卑しいという現象を踏まえて、乾と坤が定められている。万物の高低、並列により、六爻の貴賤が決められている。
動あるいは静は、常時定まっていることから、剛と柔が分かれるのである。
万物が性質ごとに集まったり、種類ごとに分かれたりしていることが原因で、吉と凶が生じるのである。
天では日月星辰の現象、地では山川草木の形象となって現れることにより、陰と陽という変化の結果が表れるのである。

○書き下し文
天は、尊(たか)く、地は、卑(ひく)くして、乾坤定まる。 卑高もって、つらなり、貴賤位す。 動、静、常ありて、剛、柔、わかる。方は類をもって聚まり、物は群をもって分かれて、吉凶生ず。天に在りては象を成し、地に在りては、形を成して、変化あらわる。

ブラ高野~阿波十郎兵衛屋敷

阿波十郎兵衛屋敷は、人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」に登場する板東十郎兵衛の屋敷跡ですが、現在は、記念館として展示だけではなく、舞台実演が毎日おこなわれています。
「傾城阿波の鳴門」では、欲に目がくらんで実の娘とは知らず巡礼を殺して金品を強奪する板東十郎兵衛は、史実では阿波藩の悪事を一身に背負って処刑された忠義に厚い武士でした。
人形浄瑠璃を見ると、人間の情念、人生の因果をテーマにした真実性の荘厳さに心をうたれますが、これが歌舞伎になると、なぜかわかりませんが、炭酸の入っていないサイダーのように間が抜けたようになります。
十郎兵衛屋敷の舞台では、悲しみや喜びの所作を表現する操作法も見学でき、奥深い人形劇の世界に親しむことができます。

阿波十郎兵衛屋敷玄関
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お弓とお鶴、十郎兵衛
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薩摩のすてがまり

西暦1600年、関ヶ原の戦い終盤、島津勢は、すてがまりという戦法で退却戦に突入します。
すてがまりは、数人のしんがりが退路にあぐらをかいて座ったまま、火縄銃で敵を狙い撃ちしながら一時的に追撃を止めます。
これを何組も繰り返し、本隊を逃がしたあと、置き去りになったしんがりは、皆殺しになるという過酷な退却法です。
西軍の敗北濃厚、敵中に孤立した島津義弘は、当時66歳の高齢、足弱のため背後の急峻な伊吹山系を登ることができず、なこよか、ひっとべ(泣くより、ひっ跳べ)という諺のとおり、前面の東軍に向かって敵中突破を決意します。
火縄銃の一斉射撃のあと、わずか300人程度に減った島津勢が突撃してきたため、驚いたのは、東軍将兵です。
勝利が確定した10万人近い東軍の後詰は、事態が把握できず、この瞬間関ヶ原全体に空白の時間が流れたはずです。
眼の前を遁走する島津勢を一呼吸おいて見送る徳川軍が追撃戦を開始したのは、島津勢が伊勢街道を南下し始め、気が緩んだ頃でしょうか。
しかしながら、すてがまりの効果絶大、手勢の80人とともに島津義弘は生き残り無事薩摩に帰還できたものの、当初関ヶ原に参集したのは1,000人以上、生還率が8%に満たないという壮絶な敗戦でした。
島津家中の子孫共は、日本列島最大の内戦である明治維新を戦い抜き、関ヶ原の戦いから268年後リベンジを完了しました。

ブラ高野~福岡市文学館

福岡市中央区西中島橋たもとにある福岡市文学館は、明治42年辰野片岡建築事務所が設計、竣工しました。
この建物は、赤煉瓦文化館とも言われています。
外観の赤煉瓦、白い花崗岩の帯、ドームや小さな塔は、19世紀英国の建築様式をまねているようですが、メンテナンスも十分で立派なものです。
昭和44年、国の重要文化財に指定されたことから、福岡市が旧日本生命保険株式会社から譲り受け、現在は、福岡市に関係のある文学者を紹介する展示施設となっています。

玄関
福岡市赤レンガ文化館入り口

全景
福岡市赤煉瓦文化館 本体

ブラ高野~紫川

福智山山系を水源とする紫川は、北九州市小倉北区を貫流し北九州港に流れ込む、延長22.4km、流域面積約100㎡の二級河川です。
諸説あって由来不明のその名称に似合わず、50年前は、紫にはほど遠く、真黒に汚れ澱んだ水路でしたが、今ではアユもシロウオも遡上して、見違えるように清潔な水流となっています。
洞海湾もきれいになりましたが、特に市街地を流れる紫川の浄化は、公害撲滅に必死に取り組んだ北九州市民による環境再生の勝利を象徴するといっていいでしょう。

紫川河畔
紫川河畔

下流(北九州港へ)
紫川上流

上流(福智山系へ)
紫川下流

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