高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~陸奥宗光旧邸

東京山手線鶯谷駅前に陸奥宗光の旧邸があります。
陸奥宗光(むつむねみつ、1844年 ~1897年)は、元紀州藩士で、革命家、外交官、政治家。外務大臣、農商務大臣を歴任しました。
若い時分は長崎の亀山社中(武装商船会社)に所属し、暗殺された坂本龍馬の仇討ちに京都の天満屋(てんまや)に斬り込んだこともあります。
才気煥発、カミソリ陸奥とも呼ばれ、第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正に尽力(じんりょく)しました。

陸奥宗光旧邸

肖像画

 

 

古典における時刻の表現

古典における時刻の表現について、平家物語から那須与一(なすのよいち)の章を抜粋してご紹介しましょう。
平家物語では24時間を表現するのに十二支を使っています。
夕方の17時から19時の2時間をひらがなでとりのこく(酉の刻)と書いています。
現代語訳ではその間をとって18時と設定しています。

平家物語巻第十 那須与一の章(鎌倉時代、作者不詳)
「ころはにんぐわつじふはちにちとりのこくばかりのことなるに、をりふしきたかぜはげしうふきければ、いそうつなみもたかかりけり。ふねはゆりあげゆりすえただよへば、あふぎもくしに、さだまらず、ひらめいたり」

現代語訳
「ちょうど時期は2月18日18時ごろなので、北風が吹いて磯によせる波も高かった。舟は揺り上げ、揺り末して漂えば、扇も竿(さお)の先で揺れて定まることがなく、ひらひら動いていた」

ブラ高野~鶯谷駅

鶯谷(うぐいすだに)駅は、JR山手線(やまのてせん)に29ある駅の一つで、上野駅の隣、乗降客数は、新宿駅の2%、乗降客ランキングは最下位の29位で、駅舎も面白いほど田舎風です。
駅前の言問通り沿いはごちゃごちゃしていますが、家賃も食料品も安く、浅草、上野も徒歩圏内で住みやすい街です。

駅の名称は鶯谷といいますが、周辺にも鶯谷という地名はありません。
プラットホームに立つと、東側にはラブホテル街があり、西側には寛永寺の墓所が見え、生と死を連想させる独特の光景が広がります。

駅前の根岸は、正岡子規の住居を保存した子規庵や陸奥宗光の別邸があり、戦前までは落ち着いた住宅地だったようです。

鶯谷駅舎

二十四方位(にじゅうしほうい)のつくり方

二十四方位(にじゅうしほうい)は、一見ややこしく見えますが、分解すると十二支(じゅうにし)、十干(じっかん)、八卦の単純な組み合わせであることがわかります。
二十四方位のつくり方は、次の手順で行います。

⑴ 十二支
全方位を二十四等分して北から一つおきに十二支の「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(い)」を当てはめます。

⑵ 十干
十干のうち、東を意味する甲(きのえ)と乙(きのと)を卯(う)の前後に置く。南を意味する丙(ひのえ)と丁(ひのと)を午(うま)の前後に置く。西を意味する庚(かのえ)と辛(かのと)を酉(とり)の前後に置く。北を意味する壬(みずのえ)と癸(みずのと)を子(ね)の前後に置きます。
戊(つちのえ)と己(つちのと)は、中心なので方位から外します。

⑶ 八卦
八卦のうち東北に艮(ごん)、東南に巽(そん)、西南に坤(こん)、西北に乾(けん)を配置します。

以上で二十四方位が完成します。

ブラ高野~ビートたけしの手形

浅草公会堂(東京都台東区)にあるスターの広場に有名人の手形が公開されています。
ビートたけしの手形をみると、哀川翔はもちろん他の人と比べても小さいので、この人は、手先も生き方も実は不器用ということがわかります。
写真ではわかりにくいのですが、サポート線はないものの、太くて長く、くっきりした生命線を持ち、寿命は85歳以上とみました。

ビートたけしの手形

哀川翔の手形

歴史の見方

現在から歴史をみるのではなく、自分の意識を3000年前の古代中国易経成立時点へ置いて、そこから現代へ至るまでの出来事を眺めていくと、歴史的時間の短さと空間の狭さを実感できます。
易経成立から500年たって釈迦や孔子が生まれ、1000年後にイエス、弘法大師と伝教大師は1700年後にお生まれになりました。
今から400年前ではなく、易経が書かれて2600年後に、世界史に影響し、日本の針路を決めた関ヶ原の戦いがあった、とみるのです。

ブラ高野~六角堂


東長寺(福岡市博多区)の門を入ってすぐ左にある、六角形をした二層構造の建物は、木造建築物の良き風情を伝えています。
仏殿でありながら狛犬を両脇に控えさせて、さりげなく建っているところに洒落た味わいを感じることができます。
コンクリートの街並みの中で、この六角堂は、19世紀にできたとは思えないほど歴史的な長さと深みを感じさせ、福岡市指定有形文化財として保護されています。

十干(じっかん)の意味

十干(じっかん)は五行(ごぎょう)から派生した概念であり、甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)の総称ですが、殷王朝(BC17世紀)の時代に使われたといいます。
十二支と同じように草木(そうもく)、即ち生命の発生、繁殖、成熟、死滅の過程を十段階に区分し説明したものです。
十干の干は、樹木の幹のことですが、それぞれ次のような意味あいがあります。

甲(きのえ)~よろいかぶと、という意味で、種子が厚い皮を被っている状態をいう。

乙(きのと)~きしむ、という意味で、幼い芽が伸びずに曲がっている状態である。


丙(ひのえ)~あきらか、という意味で、草木が充分に成長し、その姿がはっきりとした様子を表す。

丁(ひのと)~壮年の男子、という意味で、草木が成長し充実してきた様子を示す。

戊(つちのえ)~しげる、という意味で、草木が繁茂して大地を覆うほど盛大となった様である。

己(つちのと)~やむ、という意味で、草木の繁茂が極限となった様子である。

庚(かのえ)~あらたまる、という意味で、草木が実を結んで春の訪れを待っている状態である。

辛(かのと)~あたらしい、という意味で、草木が枯れ果て新しい芽吹きを準備している状態である。

壬(みずのえ)~はらむ、という意味で、種子の中に新しい生命がはらまれた状態を表す。

癸(みずのと)~はかる、という意味で、種子にはらまれた生命が長さを測れるほど伸びた状態である。

ブラ高野~廣田弘毅生誕記念碑

廣田弘毅(ひろたこうき 1878年~1948年)氏は、福岡市出身者で唯一総理大臣になった政治家です。
天神三丁目の路地に「廣田弘毅先生生誕之地」と書かれた記念碑が建っていますが、ここで、石工・廣田徳平とタケの長男として生まれました。
この生誕記念碑は、出光石油の創業者である出光佐三(いでみつさぞう)氏の揮毫によるものです。
廣田弘毅氏は、総理大臣就任後は軍への粛清を実行したものの、軍部大臣現役武官制を復活させたことが極東軍事裁判で戦争責任に問われ、文官でありながら一切自己弁明をすることなく有罪判決を受け死刑となりました。
なお、日本国憲法第66条第2項では、シビリアン・コントロール(文民統制)を担保するため次のように定めています。
「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」

生誕記念碑(福岡市中央区天神)

※軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)
閣僚のうち陸軍大臣、海軍大臣のポストは、現役の大将か中将しか就任できないという制度であり、軍による組閣阻止や内閣打倒に利用され、シビリアン・コントロール(文民統制)が機能せず、開戦決定も含めて軍の独走を阻止できず、国家敗亡の一因になった、明治憲法における政治システムである。

占いの的中力について その2 ユング心理学

・シンクロ二シティという言葉を最初に使ったのは、精神科の医師であるスイス人のユング(1875年生まれ)であるが、ユングは、精神病患者の妄想が、時代や地域や文化の差を超えて、世界各地に残る神話、伝説、昔話に驚くほど似ている事実に気づいた。

・これは、人類に共通する意識であると考え、普遍的無意識(集合的無意識)と名付けた。さらに普遍的無意識の中にシンクロ二シティを起こす原因である元型(げんけい)を仮説として想定し、元型は、全人類にみられる行動様式、あるいは共通した生活習慣であると考えた。
・人間は、程度の差があるものの、二重人格と思っていいが、元型の一つは、二重人格者における裏の人格である。これを影という。

・元型の種類としては、アニマス(男性性)とアニマ(女性性)、太母(母性性)、老賢者(父性性)などがあるが、元型は普段は人格の裏に隠れているので、表に出たい、出したいという欲求からこれがストレスに高まり、シンクロ二シティを起こし、占いが敵中する原動力となるのである。

・元型とは何か?ストレスのもととなる人間の暗黒部分である。

・人によって強弱のある直観力ではなく、元型の存在を認めると、的中力の存在を容易に説明できるのである。

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