高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

ブラ高野~承天寺一山報賽式(じょうてんじいちざんほうさいしき)

承天寺一山報賽式は、承天寺(福岡市博多区)の僧侶による筥崎宮へのお礼参りである。
1241年5月(鎌倉時代)、承天寺の開基である聖一国師が南宋留学を終えて帰国の途中、海路悪天候に遭遇し船が転覆しそうになった。
玄界灘の沖合から見えた筥崎宮の灯火(とうか)を頼りにご守護を祈願したところ、船は無事那の津(博多港)へたどり着いた。
このお礼のために聖一国師が筥崎宮へ参拝したのが、翌年の1月11日であった。
爾来途切れることなく、毎年1月11日に承天寺一山の僧侶によるお礼参りが続いている。
僧侶は拝殿の上を巡りながら読経するが、これを筥崎諷経(ふぎん)巡り経という。
僧侶が神社へ参拝するという珍しい光景が770年以上続いているのである。

PR看板

神官の出迎えを受ける

筥崎諷経(ふぎん)巡り

 

六変筮法(ろっぺんぜいほう) その1

1 概要
中筮法ともいわれる六変筮法は、筮竹を6回はらい、はらうごとに残った筮竹本数と陰陽、八卦を記録していく、という筮法である。爻は出ない。

⑴ 之卦(しか、ゆくか)
本卦における乾と坤の位置にある陰陽を逆転してテーマの本質である之卦(しか、ゆくか)を出す。奇数は陽、偶数は陰である。

⑵ 手法
本卦が火地晋であれば、そのうち、乾と坤の位置にある陰陽をひっくり返すと、雷山小過となる。上卦(じょうか)の火が雷に、下卦(げか)の地が山に変化するのである。
結果は、「火地晋の雷山小過に之く」という。
本卦は、現象、運勢、表側、之卦は、本質、宿命、裏側を意味している。

2 歴史上の実例
⑴ 時代、場所
BC548年(春秋時代)
中国大陸の山東半島に存在した斉(せい)の国

⑵ 登場人物
崔杼(さいちょ)~斉の貴族
宲姜(とうきょう)~崔杼の妻、東郭偃の姉
東郭偃(とうかくえん)~崔杼の家臣
光(こう)~斉の荘公
晏嬰(あんえい)~斉の下級貴族

⑶ 家系
斉は太公望呂尚が建国した国であり、姓は姜(きょう)という。
崔杼も東郭偃・宲姜兄弟も先祖をたどれば太公望呂尚に行き着く同族である。
崔杼は、斉の第二代君主丁公(ていこう)の後裔であり、東郭偃・宲姜兄弟は、斉の第十五代君主桓公(かんこう)の血筋である。
同族であるので婚姻は不可とされた。

ブラ高野~クルットバス

クルットバスは、福岡市早良区の西新から小戸を結ぶ無料送迎バスである。
ルートは、西南学院大学前→姪浜ドライビングスクール→マリノアシティ福岡→「ヒナタの杜 小戸の湯どころ」である。
時間は毎日12時から1時間に1本、全周約25分、バスの定員29名である。
クルットバスの運行で、移動手段を持たない人の利便性、また地域振興や交通渋滞の緩和にも役立っている。

クルットバス

クルットバス運行案内

易経の思想

⑴ 概要
万物の実体は陰と陽から成り、陰と陽はある時は対立、ある時は融合しようとして、循環し、かつ変化している、という陰陽二元論は、陰も陽も、対象を理解しやすくするための便宜上の区分で、両者は、融通無碍(ゆうずうむげ)にして混沌とした宇宙の中心、即ち大極である、とするのが易経の思想である。
万物が変化する、という現象は、極少物質を研究する量子力学でも物質は観察者によって不断に姿を変える「不確定性原理」で知られている。

陰陽二元論の事例
「幽王二年、西周の三川、皆、震す。・・・夫れ天地の気は、その序を失わず。その序を過(あやま)つが若(ごと)きは、民これを乱せばなり。陽、伏して出ずること能わず、陰迫りて蒸(のぼ)ること能わず、是において、地、震する有り。今三川、実に震するは、是れ陽其の所を失いて陰にうずめされるばなり。陽失いて陰に在れば、源必ず塞がる、源塞がれば国必ず亡ぶ」 (出典:中国の古典14「史記四」司馬遷著 目次~周本紀79~80頁抜粋)

高野白山訳
「周の幽王が即位して2年目、渭水、けい水、洛水の三川周辺に地震があった。・・・地震が起きたのは、天地が自ら秩序を失ったからではない。人民が戦乱を起こしたため陰と陽が入れ替わったのが原因である。陽の気が陰の気により抑えられて上昇できず、地震が起こるのである。今回三川の地方に地震が起きたのは、陽の気がそのあるべき所を失って、陰の所を埋めたからである。陽の居場所がなく、陰になれば必ず川の源流が塞がれる。源流が止まれば国は必ず亡びる」

ブラ高野~西南クロスプラザ

西南クロスプラザは、西南学院大学の学生食堂である。
外観がおしゃれ、内部もきれいで明るい。
日替わりの和定食も530円~570円と安く、天神で同レベルの定食を食べると、1、200円程度は覚悟しなければならない。
ほかのメニューも豊富、味付けも上々、学生だけでなく、近隣住民の利用も多い。
営業は、月から土まで、日、祝日は休みである。

西南クロスプラザのテラス

和定食

 

 

ブラ高野~西日本シティ銀行

西日本シティ銀行は、2004年10月に、西日本銀行と福岡シティ銀行 が合併して誕生した新興の銀行である。
旧本店の設計は磯崎新である。

この銀行は、九州特に福岡県を中心に183店舗を展開し、広島県や岡山県、東京都、大阪市にも支店を持つ。

預金残高は2020年3月31日時点で8兆2、916億である。

 

中国の名臣晏嬰(あんえい)

⑴ 晏嬰の人物
晏嬰(BC578~500年)は、斉の人である。晏平仲(あんぺいちゅう)あるいは晏子(あんし)と尊称され、斉(せい)の霊公、荘公、景公という三代の主君に仕えた。
崔杼(さいちょ)が荘公を殺したのは、BC548年のことである。
荘公が夫人の宲姜と密通したからであるが、クーデターは成功し崔杼は慶封と組んで政権を強奪した。

クーデター直後、崔杼と慶封は、貴族を集めて「崔と慶に組しない者は殺す」と宣言した。しかし、晏嬰は「君主に忠誠を尽くし、社稷(しゃしょく)のためになる者に従う」と一歩も引かず、崔杼も反クーデターを恐れて、民衆の支持を受けている晏嬰を殺すことはできなかった。
晏嬰はただの堅物ではなく、頓智のきいた面白い人柄でもあったので人々に愛されたのであろう。
晏嬰の名声は数々のエピソードとして伝えられている。
※社稷(しゃしょく)~社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。転じて、国家のことを意味する。

⑵ 犬の門のエピソード
晏嬰は身長1m35mの小男であったが、楚に使節として訪れた時のことである。
楚は大門の横にあるくぐり戸に晏嬰を案内した。
晏嬰は、「犬が入る門で他国の使者を迎えるのは犬のすることであろう。自分は今日、使節として来た。楚は私をこの戸から入らせてよいのか」と叫んだ。
そこで楚の君主は恥じ入り大門を開いて晏嬰を入らせた、という。

⑶ 羊頭狗肉(ようとうくにく)の由来
斉の霊公(在位 BC582~554年)の時、町の女性の間で男装をすることが流行り、霊公はこれを止めさせたいと思って禁令を出した。しかし、もともとこの流行は霊公の妃(きさき)から始まったのであり、霊公は相変わらず妃には男装をさせていたので、流行は収まらなかった。
そこで晏嬰は「君のしている事は牛の頭を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は終わります」と諫言し、その通りにすると流行は収まった。このことが「牛頭馬肉」の言葉を生み、後に変化して故事成語の「羊頭狗肉」になった。

ブラ高野~福岡銀行

⑴ 概要
1877年第十七国立銀行として創業した福岡銀行は、福岡県内はもとより九州全県に金融展開しており、特に熊本市と鹿児島市にはそれぞれ営業部を設置している。
また山口県、広島市、大阪市、名古屋市、東京都に店舗を開設している。

2006年10月には長崎県の親和銀行と業務・資本提携を結び、親和銀行の不良債権の解消と取引先企業の事業再生・早期健全化の実現に向けたサポートを行った。
2007年4月には、熊本県の熊本ファミリー銀行を子会社とした。

預金残高~12兆4,207億円(2021年3月31日現在)

⑵ 本店
福岡銀行本店は、建築家の黒川紀章により設計されたものである。
外観上の最大の特徴ともなっている直方体の一部を切り取ることで生まれた大きなピロティは、公共空間として利用されることを意図したものであり、竣工した1975年当時は画期的な試みであった。

福岡銀行本店

中国大陸黄土地帯の様相 その5~虐殺の王朝

二十万人という被害者数の信憑性であるが、漢の高祖劉邦が項羽を論難した10項目のうち6番目にある数字であり、当時は誰でも知っていたことがわかる。
「史記」の原文は次の通り
「詐(いつわ)りて秦の子弟を新安に阬(あな)にすること二十万、其(そ)の将を王とす。罪六なり」

高野白山訳
「新安では秦の若者をだましうちにして、二十万人も阬(あな)にして、将だけをを王に取り立てた。これが罪の第六である」

垓下の戦いで滅亡を覚悟した項羽の心境は次の通りである。

垓下の歌
「力は山を抜き 気は世を蓋ふ 時に利あらずして 騅(すい)逝かず 騅、逝かざるを 奈何(いかん)せん
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん」

項羽は、敗北の原因は、自分ではなく、時勢にあると、思っていたのである。
これに司馬遷は「史記」で以下のように激しく批判している。

史記:
「みずから攻伐に矜(ほこり)り、其の私智を奮いて、古(いにしえ)を師とせず、覇王の業と謂(おも)い、力征を以って、天下を経営せんと欲せしも、五年にして卒(つい)に其の国を滅ぼし、身は東城に死せり。尚お覚寤(かくご)せずして、みずから責めざしは、過てり。乃ち〚天、我を滅ぼす。兵を用うるの罪にあらざるなり〛を引く。豈(あ)に謬(あやま)らずや。」

高野白山訳
「自分の功業を誇り、浅知恵ばかりに頼って、過去に学ぶこともせず、ただ覇道のみを信じ込み、武力で天下を経営しようとしたが、五年間でついにその国を失ったのである。東城で死んだときでさえ、そのことに気が付かず、みずからを責める気持ちがなかったが、それは間違っている。しかも『天がわたしを滅ぼすのだ。戦術のまずさではない』と言い張るに及んでは、むちゃくちゃではないか」

ブラ高野~コメダ珈琲

コメダ珈琲店は名古屋市に本拠を置く喫茶店チェーンである。
1968年に創業者の加藤太郎がコメダ珈琲店を開店した。
コメダの名称は創業者の家業が米屋で、「コメ屋の太郎」にちなむものである。
この喫茶店は、現在900店を超える店舗を持つ最大手の一つである。

コーヒーもパンやケーキも食べきれないほど量が多く、しかも安価、利用時間は一日でも半日でも無制限、ゆったりとした広いスペース、まさに都心のオアシスである。

伊勢神宮のお祓いを受けた紅茶の瑞(みずき)も注文できる。

店舗入口

コメダ珈琲店のシンボルマーク

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