高野白山の九州易学開運学院

徒然の記

中国大陸黄土地帯の様相 その4~虐殺の王朝

次に、捕虜にした秦兵の虐殺方法を詳細に描いている、司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」を引用しよう。

項羽と劉邦:
「われわれは、どうなるか」という狐疑が、秦兵を動揺させ続けている。かれらは楚軍とともに、その郷国である秦(関中)に攻め入るのだが、この点についても気がむかなかった。といって秦の兵には秦帝国への忠誠心などはさほどにはない。むしろ楚人の関中入りがおそらく成功すまいという見方の方が強く、楚人が関中の秦兵に敗れた場合、かれら楚人はふたたびこの帰順秦兵を捕虜として中原へつれ去り、関中に居る帰順秦兵の家族は、秦帝国の手で殺されるにちがいないと猜疑していた。
「いっそ、反乱をおこすか」

~(中略)~

まずいことがおこった。ある夜、秦兵の宿営地を巡回していた楚人の将校がこの種のささやきを聴いた、というのである。この聴き込みは、項羽まで上申された。

~(中略)~

范増(はんぞう)は、黥布(げいふ)を本営によび、密議した。
以上の事態は、この大軍が新安に到着する直前までのことである。
新安での秦軍二十余万の宿割りは、黥布の配下の将校がきめた。
城外で、しかも地隙(ちげき)の多い地域が、野営地として指定された。垂直断崖でかこまれた四角い黄土谷が無数にあり、地の底をのぞかせていた。
深夜、黥布軍が秘密の運動をした。かれらは足音をしのばせて、黄土谷のない平原にあらわれ、捕虜たちの宿営地の三方をかこみ、一方だけをあけたのである。
次いで、一時に喚声をあげ、包囲をちぢめた。この深夜の敵襲で、二十余万の秦兵たちがパニックにおち入った。かれらは一方にむかって駆け出し、たがいに踏み重なりつつ逃げ、やがて闇の中の断崖のむこうの空を踏み、そこからは人雪崩(ひとなだれ)をつくって谷の底に流れ落ちた。

~(中略)~

ジェノサイド
大虐殺は、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模でおこなわれたのは、世界史的にも類がなさそうである。
さらには、項羽がやったような右の技術も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮(さつりく)側にとってはとほうもない労働になってしまう。項羽がやったように、被殺者(ひさつしゃ)側に恐慌をおこさせ、かれら自身の意志と足で走らせて死者を製造するという狡猾(こうかつ)な方法は、世界史上、この事件以外に例がない」

ブラ高野~屋上庭園

JR博多駅屋上には、つばめの杜ひろば、という名称の庭園がある。
ここは展望テラスを備えており、福岡市一円また博多湾を展望できる。
鉄道神社やイベントスペース、お菓子販売所も設置され、現在はドリームつばめ号が庭園内を走っている。

つばめの杜ひろば

ドリームつばめ号

中国大陸黄土地帯の様相 その3~虐殺の王朝

下記は、秦の捕虜二十万人を虐殺したときの項羽と部下の黥布(げいふ)らの様子を史記の項羽本紀(こううほんぎ)から抜粋したものである。
司馬遷は、「新安城の南に阬(あな)にす」と大虐殺事件をさらりと書いている。
原文では「阬(あな)にす」となっているが、殺し方は穴埋めにしたのではなく、武器を持たない捕虜集団を夜襲して深い谷底へ突き落した、とみれば二十万人が百万人でも話は簡単である。当時でもこの殺害方法は例がなく独創的であったためか、該当する概念、単語がなかったので、司馬遷はまとめて「阬(あな)にす」と書いたのであろう。
「阬(こう)」とは穴埋めにする、という意味であるが、黄土谷を知らずに文字通り穴を掘って埋めた、と受け取ると人力だけで二十万人分の巨大な穴を掘れないので、ネット情報のように虐殺人数が七~八万人という誤った見方になる。
凸凹した谷間が続いている、という黄土地帯の地形を利用した項羽の大量殺人法に比べると、ナチスドイツは、数百人単位でユダヤ人をガス室で殺害したものの、遺体を焼却炉で焼いて処理した。

史記:
「章将軍等、我が属を偽りて諸侯に下れり。今善く関に入り秦を破らば、大いに善し。即(も)し能(あた)わずんば、諸侯、吾が属を虜(とりこ)にして東し、秦、必ず尽(ことごと)く吾が父母妻子を誅(ちゅう)せん」と。
諸将、密(ひそ)かに其の計を聞き、以って項羽に告ぐ。項羽、乃(すなわ)ち黥布(げいふ)・蒲(ほ)将軍を召して、計(はか)りて曰(いわ)く「秦の吏卒尚(な) お衆(おお)く、其の心、復せず。関中(かんちゅう)に至りて聴(き)かずんば、事、必ず危(あや)うからん。これを撃殺(げきさつ)して、独(ひと)り章邯(しょうかん)・長吏(ちょうし)の欣(きん)・都尉(とい)の翳(えい)と与(とも)に秦に入るに如かず」と。是(ここ)に於いて、楚の軍、夜撃(う)ちて、秦の卒二十余万人を新安城の南に阬(あな)にす」

高野白山訳
「章将軍らは、私たちをだまして諸侯の軍に降伏してしまった。もし函谷関(かんこくかん)から攻め入って、秦を討ち破ればおおいによろしいが、もし秦に勝てなかったら、諸侯はわれらを捕虜として東に連れ去るだろう。そうなれば、秦は必ずわれらの父母妻子を皆殺しにするに違いない」
項羽の諸将は、秦の士卒の密談を密かに盗み聞き、項羽に報告した。項羽は、黥布(げいふ)と蒲(ほ)将軍を呼んで、相談して言った。
「秦の士卒は、降伏したとは言え、人数は多く、心から帰服しているわけでもない。関中に攻め入ってから反抗されたのでは、必ずや危険な事態になるであろう。むしろ今のうちに皆殺しにして、将軍の章邯(しょうかん)、副将の司馬欣(しばきん)、都尉の董翳(とうえい)だけを助けて、秦に入った方がましだ」
こうして楚軍は夜襲をかけて、降伏した秦の兵卒二十余万人を新安城の南で阬(あな)にして殺した。

出典:中国の古典12「史記Ⅱ」(司馬遷著) 目次~高祖本紀 320頁抜粋

 

ブラ高野~福ふく整骨院

福ふく整骨院は、地下鉄西新駅から歩いて5分、福岡市早良区西新の商店街にある。
ここでは腕の良い先生が骨盤矯正や腰痛をはじめとして肩こり、頭痛、妊活やマタニティ整体も含めて痛み全般を改善してくれる、おすすめの整骨院である。
広めの託児スペースもあり、慣れたスタッフが常駐しているので安心して子供を預けることができる。

施術が終わった後は、歩調も軽く身体がはっきり伸びているのがわかり、すっきりさわやかな気持ちになる。

私は一年近く治療を受けたが、腰痛や膝の痛みが軽くなり、体重も3kg減、血圧は正常値を示し体調良好である。

千客万来の整骨院

ママさんにも好評

中国大陸黄土地帯の様相 その2~地形

細く長い日本列島では、東西南北に比較的に人間が動きやすいが、黄土による断崖や段丘、また大河、大山脈にさえぎられた中国大陸では、過酷な自然により移動自体が困難であった。黄河流域に広がる黄土に覆われた大地の有様を司馬遼太郎先生の「項羽と劉邦」から紹介しよう。

項羽と劉邦:
「現在の行政区でいえば山西省になる。ほぼ全体が黄土高原をなし、いくつかの山脈が南北に並行し、山も谷も黄土層をもってあつくおおわれており、樹木もすくない。そのなかを北から南へ高原を切り裂くように汾河(ふんが)が流れている。汾河の両側は黒っぽい断崖、灰色の段丘が多く、ときに水流が大きく地をひろげてひとびとに耕地をつくらせており、韓信とその軍が通って行った道路というのは、その汾河河谷(かこく)ぞいに延びている。地名でいえば、曲沃(きょくよく)、平陽(へいよう)(現在、臨汾、介休をへて楡次(ゆじ、太原市の南方)を通り、この楡次のあたりから道がはじめて東する。黄土高原は次第に降りになり、やがて河北平野がひらけ、現在の地名でいえば、石家荘市あたりに出る。
ただ、河北平野へ出る行路は最後の難所というべきところで、道のゆくてには、南からつづいている太行(たいこう)山脈の北端がさえぎっている。
そのあたりの地形はじつに奇怪であった。
天が包丁をもって山地を縦横にきざんだように細長い谷ができている。それが自然の切通しや道路になっているのだが、そのほとんどは人馬が二列になって通ることができず、一列でもって長蛇の列をつくらなければならない。このあたりでそういう自然道のことを陘(けい)と呼んでいる。
そのなかでも、井陘(せいけい)という自然道が有名で、韓信軍が河北平野に出るにはこの井陘の道を通らなければならない。平野に出る手前に、古来、関門があった。土門関といい、井陘口(せいけいこう)とも呼ばれた。
「井陘口さえ扼(やく)すればどういう大敵でもふせげうる」と、古い時代からいわれていた」

ブラ高野~金色のモニュメント

福岡ダイヤモンドビル(福岡市中央区天神)前の金色のモニュメントは、無名でありながら、さりげなく、しかし圧倒的な存在感を持ったインパクトがあり、街角のアクセントにふさわしい空間を演出している、優れた造形物である。
福岡の新しい待ち合わせの場所となりそうな予感もある。
この作品は、設計は、株式会社オーケストラ、第8回福岡市都市景観賞を受賞した。

金色のモニュメント

中国大陸黄土地帯の様相 その1~豊穣の大地

易も九星も中国大陸黄河流域の黄土地帯が故郷である。
黄土は自然の賜物であり、諸刃(もろは)の剣(つるぎ)でもある。
黄色い土のチリが降り積もった大地は肥沃で豊かな恵みをもたらす反面、黄河が氾濫(はんらん)すると、生き物が絶滅する過酷な環境が黄土地帯である。

司馬遼太郎先生が項羽(BC232年~BC202年)の口を借りて、「項羽と劉邦」という小説でその有様を説明しているので以下引用しよう。

項羽と劉邦:
〚(なんと、ゆたかなものだ)と、項羽は、自分の故郷の水っぽくて黒い土の色とはまったくちがった黄土地帯の田畑を見つつ、この大地に豊穣を感じた。漢民族の文明は黄土地帯において盛衰をくりかえしてきただけに、楚人である項羽は、土の黄色っぽさをみるとどことなくこれこそ文明の地帯だとおもってしまう。
黄土は、北方の半乾燥アジアのちりが風に運ばれて堆積(たいせき)したもので、粒子はこまかく、掌(て)にすくえば軽くてさらさらしており、層は深さ平均二、三0メートルもある。ときに七0メートルにも達する。
黄土は植物の成長に必要な鉱物質を多量にふくんでいるのと水保(も)ちがいいために農業にもっともよく適して、この大陸に巨大な農業文明をそだてたが、一面、水触(すいしょく)されやすい。水触されると、ほぼ垂直の谷壁をつくって陥没し、平地に巨大な穴(あるいは谷)をつくってしまう。
新安には、水触によってできた黄土谷が多い。ときに転落すれば命をおとすほどに深い谷があった〛

ブラ高野~唐津街道(からつかいどう)

唐津街道は九州北部の玄界灘沿岸に江戸時代に整備された街道である。
小倉から、博多を経由し唐津、平戸に至る。
かつて福岡藩や唐津藩の参勤交代など、にぎやかに多くの旅人が往来した。

案内板には次の通り記されている。
「唐津街道
江戸時代、福岡藩や唐津藩の参勤交代に使われていた道で、北九州の小倉から福岡城下を通過し。荒戸、唐人町商店街、鳥飼八幡宮の南側を通って西新商店街へと進み、唐津城下に至る道筋です。とりわけ、当仁校区内では黒門があった黒門飴屋前から唐人町商店街入口辺りの白壁と瓦葺きの家屋、商店街の中にある福岡藩御用達であった和菓子店などは往時の面影を残しています」

唐津街道の一部

案内板

 

 

 

 

 

立春への疑問 その3

⑴ 二十四節気(にじゅうしせっき)の導入
閏月の設置により季節のズレを修正するものの、19年かけてズレを予測しては閏月を増やして調整するだけなので、これは誤差が完全に無くなるということではない。 そこで、毎年太陽の動きを読み取った季節情報をカレンダーに書き込んで注意を喚起すればいいわけで、これら季節や気候をあらわす、情感にあふれた詞(ことば)を二十四節気(にじゅうしせっき)という。

毎日太陽の動きを観測して、地球上空の太陽が通る軌道である黄道(こうどう)を記録しておけば、太陽の位置によって暑くなったり寒くなったりする時期がわかるので、季節の到来を予測できるようになるのである。
黄道(こうどう)は円を描いているので、これを360度として24等分し、それぞれに春の始まりを意味する立春や昼と夜の時間が等しい春分と秋分、田植えの時期を知らせる芒種(ぼうしゅ)という名称をつけ、太陰暦に当てはめて季節を知らせれば飛躍的に使いやすくなるのが道理である。それでも立夏が太陽暦の5月5日頃、立秋が8月7日頃で季節感のズレを生じる場合がある。
そこで、もう一工夫して新たにつくった暦日を雑節という。

二十四節気(にじゅうしせっき)のうち、主な暦注は次の通りである。
立春(りっしゅん) 暦の上では春  2月4日頃
啓蟄(けいちつ) 冬ごもりの虫たち目覚める  3月5日頃
春分(しゅんぶん) 昼夜等しき長さ  3月20日頃
立夏(りっか) 薫風そよぎ、夏はじまる  5月5日頃
夏至(げし) 1年で一番昼が長い  6月21日頃
大暑(たいしょ) 1年で最も暑い頃  7月23日頃
立秋(りっしゅう) 秋の気配立つ  8月7日頃
白露(はくろ) 野草に露がつく  9月7日頃
秋分(しゅうぶん) 昼夜等しき長さ  9月23日頃
立冬(りっとう) 冬の気配立つ  11月7日頃
大雪(だいせつ) 真っ白な雪、空も地も覆う  12月7日頃
冬至(とうじ) 最も日が短い、冬のさなか  12月22日頃
大寒(だいかん) 1年で一番寒い  1月20日頃

⑵ 雑節(ざっせつ)による補完
黄河流域で生まれた、直輸入の二十四節気を補助する意味で、日本列島の風土、生活習慣を表す特徴を暦に記入すると、格段に使い勝手が良くなり、梅雨入りを知らせる入梅や嵐の到来を告げる二百十日などがある。これらの名称を雑節といい、日本独自の暦日である。

雑節(ざっせつ)一覧表
節分(せつぶん)立春の前日、季節を分ける日  2月3日頃
彼岸(ひがん)先祖へ感謝する日。春分の日、秋分の日を中日としてそれぞれ3日間
社日(しゃにち)産土神へ感謝する日  3月22日頃 9月18日頃
八十八夜(はちじゅうはちや)立春から数えて88日目、遅霜に注意  5月2日頃
入梅(にゅうばい)梅雨入り  6月11日頃
半夏生(はんげしょう) 梅雨明け、半夏という毒草が生える時期  7月2日頃
土用(どよう) 立春、立夏、立秋、立冬の前日までそれぞれ18日間
二百十日(にひゃくとうか)立春から数えて210日目、台風への備え 9月1日頃
二百二十日(にひゃくはつか)立春から数えて220日目、台風への備え 9月11日頃

ブラ高野~勝鷹水神(かつたかすいじん)

勝鷹水神は、勝鷹商店街(福岡市早良区西新)の入口にある、敷地一坪程度の神社である。
ここはもともと人々を潤してきた古井戸の跡であるが、ホークスの必勝祈願を込めて勝鷹商店街によって建立された。
ホークスの選手たちのサインボールや絵馬、写真が奉納されている。

勝鷹水神

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