NPO法人九州易学開運学院

徒然の記

呑象 高島嘉右衛門の天才性

高島呑象先生(1832年~1914年)の天才ぶりをご紹介しましょう。

1 安政2年(1855年)の大地震、大火災を予知
大量のナマズが獲れる上、妙な釜鳴りがするため、胸騒ぎがして、易を立てたところ、易経30番目の「離為火」が出ました。

「離為火」は、火が二つ重なった様子を示すことから、呑象先生は、大火災の発生を予測し、佐賀鍋島藩から借り入れた1千両を元に、江戸中の材木屋に手付けを打ち、買い占めた1万両分の材木を、大火災の発生とともに4倍の値段で売り払い、莫大な利益を上げることができました。

呑象先生、弱冠22歳の時です。

2 日清戦争後の3国干渉を予言
日清戦争の開戦前にかかわらず、ロシア、イギリス、アメリカによる3国干渉を新聞に発表しました。

この時は、「水天需」の上爻が出ています。

上爻は、「穴に入る。招かざるの客三人来るあり。これを敬すればついには吉なり。」というものです。

実際の三国干渉は、ロシア、ドイツ、フランスでしたが、開戦前に新聞で公表するなど並みの占い師ではとてもできません。

3 釜石鉱山の存在を予知
岩手県仙人峠の茶屋で休息していた時に、山鳥の鳴き声を数えて釜石鉱山の存在を予知し、後年の明治政府による本格的な発掘のきっかけとなりました。

山鳥の鳴き声は、最初に1声、次に7声、さらに6声でした。

これを卦爻に置きかえると、山天大畜の上爻となります。

山天大畜は、山と天の大いなる蓄積、という意味があります。

卦辞の内容は、「正しければよい。外に出て活動すれば吉。大きな川を渡ってよい。」

また、上爻は、「天に命じられた大切な役目を引き受ける。通る。」

これにより、呑象先生は、山中にある大量の鉄鉱石を予測することができました。

他にも佐賀の乱で、江藤新平の行く末を予知したり、日本海海戦の結果を予言したり、エピソードにはこと欠きません。

呑象先生は、東京都港区の泉岳寺でやすらかにお眠りになっていらっしゃいます。

ブラ高野シリーズ~傾城阿波の鳴門

人間が演じるよりも真実味を感じさせる人形浄瑠璃は、人形遣いと浄瑠璃語りでつくり上げる人形劇の一種です。

傾城阿波の鳴門 順礼歌の段は、主家のお家騒動に巻き込まれ、三歳の娘を捨てた夫婦と捨てられた娘の物語です。

登場人物は、母のお弓、父の十郎兵衛、巡礼となって父母を探す娘のおつるです。

お弓が大坂玉造の隠れ家に潜んでいると、巡礼の声が聞こえてきます。
※                  ※
巡礼の娘おつる~「順礼に御報謝」

お弓が巡礼の娘に尋ねます。

お弓~「可愛らしい娘の子、定めて連れ衆は親御達、国はいづく」

巡礼の娘おつる~「アイ、国は阿波の徳島でござります」

さらに、お弓は巡礼の娘の身の上を聞き出します。

お弓~「ムム、シテその親達の名は何というぞいの」

巡礼の娘おつる~「アイ、父様の名は十郎兵衛、母様はお弓と申します」
※                  ※
お弓は、我が娘とわかりながら追手がかかる身、涙をのんでいったんは追い返したものの、後悔し、あとを追いかけます。

入れ違いに夫の十郎兵衛が、これまた我が娘とは知らないまま、追剥にあったおつるを救い出しますが、悪心を起こした十郎兵衛は、おつるから金を取り上げようとして、もみ合ううちに殺してしまいました。

むなしく帰ってきて、おつるの死骸を見たお弓は、激しく自分を責めます。

お弓~「その時留めて置いたらば、かういふ事もあろまいに・・・殺さしやつたのもわしが業、コレ堪忍してたも、堪忍してたもや。」
※                  ※
短い時間のうちに、残酷な運命と人間の浅ましさを描き切って、見事というほかありません。

どんどろ大師前のめぐり会い(歌舞伎)
傾城阿波の鳴門

どんどろ大師(善福寺)
どんどろ大師2

丑寅の艮(うしとらのごん)

北東の方位を丑寅といい、鬼門を強調する場合は、丑寅の艮と呼びます。

家相学では、原則として適度の張り(一辺の1/3以内)は、吉でプラスの力とみますが、丑寅の艮だけは何としても張りを造ってはいけない場所(方位)です。

張りを造るとどうなるか。

欲望が深く強くなるため、家族、親族間での相続争いが、世代を超えて、地域を超えて、果てしなく続くことになります。

丑寅の難しさは、土の作用である、変化と反変化(固定、停滞)が同時に起こり、いったん張りを造ると、人間の手には負えない場所(方位)となります。

また、丑寅の艮にある三畳間では、昔から心中や自死が避けられない、といわれています。

いずれにせよ、家の中心から見て北東の方位にある部分は、増改築も含めて扱わないほうが無難でしょう。

ブラ高野シリーズ~天神地下街

福岡市中央区にある天神地下街は、長さ600m、延床面積28,000㎡、東京ドームの60%の広さです。

一日の歩行者数は、約400,000人といわれていますが、人通りは、多すぎず、少なすぎず、ゆっくりと余裕をもって街歩きを楽しめます。

全体に薄暗く照明を落としていることで、店舗の明るさが引き立つため、買い物がしやすく、また歩いて飽きることがなく、地上のビル街とは別世界の趣があります。

お金を存分にかけて造った地下街を歩くたび、商人の街である博多の財力に思い至ります。

市街地にある空港との関連で、高度制限があるため、地上には高層ビルが見当たらない分だけ、街が地下へと発展したのでしょうか。

天神地下街
天神地下街1

天神地下街インフォメーション
天神地下街

二代目の辛さ

今から約1800年前、諸葛亮孔明は、現在の中国河南省南陽で無位無官、晴耕雨読の日々を送っていました。

この人は、学者肌の野心家ですが、文人サロンを根城に街中に自分の評判を撒き散らして、劉備の誘いを待つところは、なんだか弘法大師のケレン味を思わせます。

ただ、いやらしさが感じられないのは、人格の高潔さ、志の高さによるものです。

漢王朝の復興を目指して、パートナーとして劉備を選んだだけで、私欲がないことは、中国大陸では、奇跡的に珍しい存在と言っていいほどです。

出師の表では、二代目の劉禅に対して、
「則ち、漢室の隆んなること、日を測りて待つ可きなり。」と書いています。

意味は、
「そうすれば、漢室の隆盛は、日を数えて待つばかりとなるでしょう。」

出師の表は、何やらこむづかしい漢字が並んでいますが、内容は単純で、二代目である劉禅への説教と北伐への決意表明です。

出師の表の最後に、
「臣、恩を受けて感激に勝えず、今、遠く離るるに当たり、表に臨んで涕泣す。云う所を知らず」とあります。

意味は、
「私は、恩を受けて感激に耐えることができず、今、遠く離れようとするにあたり、この上奏文を前にして、激しく涙を流しています。語るべき言葉がありません。」

世界史に残るような名文を書く人物を臣下とした、平凡、というより暗愚に近い二代目君主の辛さに対して、同情するほかありません。

ブラ高野シリーズ~一葉記念館

東京都台東区竜泉にある一葉記念館は、東京メトロ日比谷線三の輪駅から歩いて8分、地上3階、地下1階、外観は、竹林のイメージを感じさせる洒落た造りです。

小説「たけくらべ」は、東京の下町を舞台に、美登利という少女の心情に肉薄しつつ、最後の部分は謎のまま終わる、というミステリアスな結末になっています。

一つのセンテンスが異常に長いのも特徴で、これは、森鷗外の影響でしょうか。

待たせるだけ待たせて、読ませるだけ読ませて、あとはご自由に想像して下さい、という作家の意図が見えてきて、天才的な小説技法というべきでしょう。

樋口一葉先生は、明治29年、肺結核のため24歳の若さで逝去されました。

一葉記念館
一葉記念館

一葉女史記念碑(菊池寛撰)
一葉記念碑(菊池寛撰)

一葉女史たけくらべ記念碑
一葉女史たけくらべ記念碑

紙垂(しで)

紙垂(しで)は、注連縄や御幣についているギザギザの形をした紙飾りです。

相撲では、横綱が土俵入りの際、化粧まわしの上に巻いています。

護摩焚きにはたびたび参加していますが、炎の先が紙垂(しで)についているのにかかわらず、燃え上がるところを一回も見たことがありません。

不思議というほかありませんが、紙垂(しで)に火がつかない理由は、三密がどうのこうの、とかいう理屈はともかく、この場合は、考えてもわかるはずもなく、わからないことはわからないこととして、不思議は不思議として、受け止めるのがよさそうです。

ブラ高野シリーズ~戸畑山笠

戸畑山笠は、約200年前に、疫病の終息を飛幡八幡(北九州市戸畑区)へ感謝するために村人がお祝いをしたのが始まりで、同じ山笠が、昼間は、幟山笠として各地区を練り歩き、夜になると、ピラミッド型にちょうちんをつけた山笠となって競演するというめずらしいお祭りです。

夜のちょうちん山笠も悪くはないのですが、幟山笠は、ラシャ地とビロードの縁取りがある紅白12本の幟旗を立てて、表は、奉書紙でつくった簡素な四つの大菊花、見送りは、金糸銀糸で縫われた鷲や鳳凰の円形刺繍、山笠台の四面を覆う幕は、緋のラシャに武者絵の縫い取り、神聖にして華麗、優雅にして格調高く、神社の境内に集合した風景は、比類ない美しさです。

7月28日が楽日となります。

西小山笠(表)
西大山笠(表)

西小山笠(見送り)
西山笠(見送り)
神社境内に大集合(表)
表

神社境内に大集合(見送り)
見送り2

神社境内に大集合(見送り)
見送り
那須与一
那須与一
鯉の滝登り
鯉の滝登り
宝船
宝船のデザイン
 

求道精神

浄土三部経のうち、無量寿経では、安楽浄土の教主である法蔵菩薩の言葉として、大乗の求道精神を以下のように書いています。

「たとい、身は、もろもろの苦毒(くどく)の中に止まるとも、わが行、精進して、忍んで(つい)に悔いざらん」

意味は、
「たとえ、私は阿鼻地獄や無間地獄にいき、止まることになったとしても、私の誓願をひるがえすことなく、忍耐力を発揮して最後まで後悔することはないであろう」

織田信長の比叡山焼き討ちをきっかけに、日本の武装宗教勢力は政治権力に全面降伏し、おかげで宗教戦争もなくなりましたが、かって、唐まで学びに行った空海や最澄、また鎌倉の開祖たちが持っていた求道精神も同時に失ってしまったようです。

現代風に政教分離、とみるといいことでもあり、しかし真摯な求道精神はどこに行ったのか、と思うと情けないことでもあり、時代によっても、立場によっても、意見、評価が分かれ、物事には両面性があることがわかります。

ブラ高野シリーズ~出雲大社

出雲大社の巨大さは現地へ行って、実際に社を見なければわかりません。

いくつかの謎をご紹介しましょう。

1 国譲りの謎
昔も今も、戦争もせずに平和裡に他国に領土を譲るなどあり得ないのは常識以前の話です。

言うまでもなく、領土は民族の存立基盤だからです。

国譲りといえば、戦国の世にわずかに斉藤道三による遺言状があるだけです。

北方領土返還運動のように50年過ぎても領土への執着は衰えることがなく、評価はともかく、イスラエルに至っては1000年単位の時間をかけても取り戻すのが領土というもののあり方なのです。

2 四拍手の謎
四拍手をすると、妙な気持ちになって落ち着かないのはなぜでしょうか。

これは、大国主を死の国からよみがえらせないための呪術であるという井沢説が説得力を持っています。

とすると、参拝者は、知らず知らずのうちに勝利者である大和の意向に手を貸していることになります。

四という数字は縁起がいいのだ、という意見が正しいとしても、出雲大社ではなぜ4回手をたたくのか、という疑問への解答にはなりません。

3 高さの謎
約1,000年前の学習書「口遊」(くちずさみ)では、「雲太、和二、京三」という暗記用の言葉覚えがあります。

ということは、雲太(出雲大社)は、和二(東大寺大仏殿~高さ45m)より大きくて高かったということを表しています。

16丈、つまり48mの高さがあったという傍証が平成12年に発掘されました。

直径1.3mの柱を3本束ねた宇豆柱が、掘立状態のまま敷地内から出てきたのです。

ご祭神の変遷があったにしろ、敗者である大国主を祀る神殿が、なぜ日本一の高層建築物なのか、という理由は、大和の怨霊信仰によるものである、という井沢説で説明が可能です。

4 ご神座の謎
本殿の正面は、南向きですが、大国主のご神座は、西に向いています。

南に対面しているのは、大和から派遣された客神5柱です。

したがって、参拝者は、客神5柱に礼拝していることになり、大国主は、そっぽを向いている形式になっています。

客神の神格が何であれ、新幹線とバスを乗り継ぎ、はるばる出雲まで行って、なぜ大和の神々に礼拝しなければならないのでしょう。

発掘された宇豆柱
発掘された宇豆柱

地上高48mの神殿模型
高さ48mの神殿模型

巨大な千木と勝男木
巨大なちぎとかつおぎ

西側壁面に設置された遥拝施設
西側壁面の遥杯拝施設

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